賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >チャンピオンズ杯準優勝

チャンピオンズ杯準優勝

 それはともかく、欧州のサッカー中心地から離れたギリシャは、英国人コーチなどの努力はあっても、第1次大戦前の国際試合はバルカン・カップが主。ユーゴやブルガリア、ルーマニアなどとの交流だったが、第2次大戦後にこれらの国が社会主義国家と変わったために、ギリシャの目はしばらくトルコやエジプトなど中近東と地中海に向く。
 トップ・リーグやカップ戦が整備され、欧州の3大カップ、あるいは代表チームが欧州選手権に参加し、ワールドカップ予選にもチームを送るようになる。しばらくは、“出ると負け”だったが、1971年にチャンピオンズ・カップの決勝に進んで全ヨーロッパを驚かした。

 パナシナイコスはピレウスのオリンピアコスと並びギリシャで最も伝統あるチーム。オリンピアコスのリーグ優勝25回(カップ戦優勝19回)には及ばないが、16回の優勝(カップ戦は12回)を誇る。60年代は特に強く、10年間にリーグ優勝6回を数え、70年の優勝も69年に続いて2年連続のものだった。
 クラブの首脳は、この好調のしめくくりに欧州のタイトルをと、1970年夏に選手生活から引退したばかりのプスカシュ(ハンガリー代表。レアル・マドリー)を監督に招く。リーグ優勝にも、欧州カップの上位進出にも監督、選手に特別ボーナスを約束した“アメ”がきいたのか、チームは1回戦でまずリヒテンシュタインのアマチュア・チームに2勝。2回戦ではチェコのブラスチラバをも退ける。準々決勝の相手はエバートン。アウェーを1−1、ホームで0−0といった守り勝ちのゲームだったが、GKのエコノモノポウロスの素晴らしいセーブが光った。
 準決勝の相手はユーゴのレッドスター・ベオグラード。第1戦のアウェー・ゲームにはアテネから大挙してサポーターが繰り出し、レッドスターのスタジアムは9万3500枚の入場券を売り尽くした。

 ジャイッチを欠くレッドスターだったが、さすがにホームでは強く、パナシナイコスは4点を奪われ、1ゴールを返すのがやっとだった。しかしホームでの第2戦を3−0でモノにし、アウェーでの得点を2倍にするルールで決勝へ進出した。
 会場はサッカーの母国ウェンブリーのメッカ“ウェンブリー”、相手はヨハン・クライフのアヤックス・アムステルダム。オランダのサッカーを急上昇させたこのチームは、1969年は準優勝(1−4ACミラン)だったため、初の王座を狙っていた。

 6月2日の試合は、ギリシャ人にとって歴史に残るものだった。自在の攻めを見せるクライフに対して、MFドマソスの組み立てる攻撃もまたチャンスを産み、0−2で敗れたチームがアテネ空港に帰ったとき、30万人が歓迎した。
 この時期、プスカシュだけでなく1部リーグ18チームのうち14チームが外国人コーチを受け入れていた。ユーゴから5人、イングランドから4人、ハンガリーから3人、ルーマニア、チェコ各一人だったが、こうした積極的な外国人コーチの導入によってリーグのレベルは上がっていった。


(サッカーダイジェスト 1992年vol.68「蹴球その国・人・歩」)

↑ このページの先頭に戻る