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バスビー、チャールトン以後のマンチェスター・ユナイテッド

 欧州制覇の翌年、マット・バスビーは監督を引退し、ゼネラル・マネージャーとなった。リーグ優勝5回、FAカップ優勝2回、欧州チャンピオンズ・カップ1回優勝という輝かしい成績は、マンチェスター・ユナイテッドとイングランド・サッカーの光彩であり、社会的あるいは産業の上で沈滞気味となっていた英国とマンチェスターにとっての、何よりの元気づけだった。

 ただし、好事は長く続かない。バスビーに代わったマクギネス監督は、ベテラン・プレーヤーたちとの間がうまくいかなくなった。“赤い悪魔(レッド・デビル)”と恐れられたチームが、やたらに負けこむようになった。
 監督が交代し、71〜72年シーズン、クリスマスのころにはトップに立っていた。ベストもローも好調だった。だが年が変わると、連敗が始まり、オファレル監督とベストの間があやしくなり、ついにベストは練習に出てこなくなり、引退につながっていく。
 第二次大戦の直前のように、2部へ落ちる年もあった(1975年)。
 次のドカティ監督も選手を探すために、金のつまったバッグを持って飛び回ることになった。ベストもチャールトンも引退し、ローもフリーになった。

 67〜68年のリーグ優勝から、しばらくリーグのタイトルから遠ざかった。FAカップは77年、83年、85年と3度優勝していても、リバプールの1973年からリーグ優勝10回、FAカップ2回優勝に比べると、いささか見劣りするが、第二次世界大戦以後8人目のアレックス・ファーガソンが1986年から監督を務め、名門復活に懸命の努力を続けた。
 彼は、このチームがシースン半ばまではよくても、後半に崩れることが多いのを見て、ケガ対策のトレーニングを考え、また各クラブからの補強に力を入れている。


(サッカーダイジェスト 1989年「蹴球その国・人・歩」)

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