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表彰パーティーとサグレス号

 サッカーのレベルアップは青少年から――FIFA(国際サッカー連盟)が他のどの競技よりも早く、20歳以下の世界選手権をスタートさせたのが1977年。そして日本はその第2回大会の開催国となりました。そのとき、ユーラシア大陸の西端からやってきたポルトガルはかろうじてベスト8に残ったのですが、以来12年間で2度、世界ユースのチャンピオンに輝きました。日本のユースが、その間1度も本大会に出場していないのに――です。フットボール・アラウンド・ザ・ワールドはポルトガルを眺めることにしました。


 今年の日本リーグの表彰式に出席したとき、選手席のあちこちで飛び交うポルトガル語に驚いた。考えてみれば、各チームに外国人プレーヤーがいて、その大部分がブラジルからの選手。それに日本の選手もブラジルで練習を積む者も増えている――だから当然といえば当然だが、実際にテーブルの間でポルトガル語(ブラジル語というほうが正解か)がやりとりされるのを見ると、あらためて日本サッカーの国際化を知ると同時に、ポルトガル語が私たちに無縁ではないことにも気づくのだった。

 ポルトガルといえば、私には8年前の帆船パレードのサグレス号を思い出す。大阪の看板でもある大阪城を豊臣秀吉が築いてから400年経つのを記念して、大阪がさまざまなイベントを企画したなかに、世界から帆船を招待したパレードがあった。
 私は、当日テレビでこの豪華なショーを見ただけだが、後日、このサグレスの入港を指揮したパイロット(水先案内人)が、旧制・神戸一中の1年下のFWで、一緒に全国大会(明治神宮大会で優勝したときのメンバー、吉森宏之氏(神戸商船大学出身)と聞いて、いっそうサグレス号は身近になった。

 風まかせの帆船の帆をいっぱいに上げて、狭い港に入るというのは、その道の人たちにとって非常に難しい技術らしい。そういえば吉森クンは、岩谷俊夫(故人、日本代表)とともに中盤でプレーしたが、左サイドの狭いところへスーッと走り込んで、中央の私から、あるいは右サイドの鴇田正憲(ときた・まさのり、メルボルン五輪代表)岩谷からのパスを得点するのがうまかった。だから、熟練したワザに加え、少年時代からの独特のカンが、フルセール入港にもプラスになっていた――と思いたい。

 いささか余談が長くなったが、ポルトガルがかつて植民地であったブラジルを通して今の日本サッカーと深く関わり、400年前から日本の歴史に大きな刺激を与え、私個人にもさまざまな関わりのある、親しみの持てる土地であり、人であり、国であると言える。


(サッカーダイジェスト 1991年10月号「蹴球その国・人・歩」)

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