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19世紀末からサッカー

 ポルトガルにサッカーが入ったのは1866年。他のヨーロッパ諸国、あるいは南米の国々と同じように英国人によって伝えられたのだが、スペインよりも少し早いのは、そのころポルトガルと英国の関係が緊密だったからといえるだろう。
 比較的早い時期にサッカーが導入され、1900年代の初めにはリスボンやポルトといった主要な町にクラブが生まれ、1914年に全国的な組織(サッカー協会)が設立される――というように順調に発展していったサッカーだが、第1次大戦がちょうど伸びようとするスポーツの国際交流の芽を押さえた。
 したがって、ポルトガルが国際舞台へ乗り出すのは1928年のアムステルダム・オリンピックから。ワールドカップは1934年の第2回イタリア大会からの参加だった。
 オリンピックは、このとき予選でスペインに敗れ、次のロサンゼルス大会はサッカーが行われず、その後もずっと縁遠い存在となった。ワールドカップでも、初参加のイタリア大会は予選でスペインに負け、1938年のフランス大会は、やはり予選でスイスに押さえられて本大会に出場できず、かつての植民地だったブラジルがサッカー国としての地歩を築くのを眺めるだけだった。

 そのブラジルで、1950年に開催された第2次大戦後、最初の大会(通算第4回大会)も予選でスペインに阻まれ、54年スイス大会はオーストリアに、58年スウェーデン大会は北アイルランドに――といった調子で予選を勝ち抜けないまま、本大会はポルトガルにとって長い間のユメとなっていた。

 1961年、ときのサラザール政権に反対し、サンタマリア号をシージャックした反政府グループの首領、ガルバン大尉の檄文の名文句に「ポルトガルには3つのFがあり、それが民衆に政治から目をそらさせ、ダメにした」というくだりがあった。その3つのFとは、「ファティマ」「ファド」「フテボール」。
 ファティマはリスボン北北東117キロにある丘陵地で、1917年に3人の羊飼いの子供の前に処女マリアが姿を現し、「この地に教会を建てよ」と告げた奇跡の地。1927年から巡礼が始まり、法王廟バチカンも認定した聖地として信仰を集めるところ。
 ファドはポルトガルの伝統歌謡、それとフテボール(サッカー)への傾倒がポルトガル人をダメにしたとガルバン大尉は訴え、民衆は目を覚まし、現実を直視してサラザール体制を打破せよとブチ上げたのだった。
 その内容の当否はともかく、ポルトガルでのサッカーが半世紀を経て、すっかり大衆にしみ込み、すでに心をとらえているのを知ることができる。


(サッカーダイジェスト 1991年10月号「蹴球その国・人・歩」)

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