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ベンフィカの欧州制覇

 それほど大衆に浸透し、愛されたサッカーが世界やヨーロッパの場で活躍できず、海の民ポルトゲスにはフラストレーションがたまったに違いない。まして隣の大国スペインがレアル・マドリーというスーパー・チームを持ち、欧州チャンピオンズ・カップで1956年から5年連続優勝などという華々しい成績を収めるものだから……。

 1961年5月31日、あのサンタマリア号事件から4ヶ月後に、ベンフィカが成し遂げた快挙、チャンピオンズ・カップ初制覇はどれほどポルトガル全土を沸かせたか――。

 1904年に創立されたベンフィカ、正式には「スポルト・リスボン・エ・ベンフィカ」はリスボンの西北部ベンフィカ地区に本拠を置いて、ポルトガル人のクラブを目ざし、数年後にリスボンと小さなクラブを吸収したため、今の正式名となった。1954年に新しいスタジアムに移り、アフリカ東部の植民地モザンビークからGKアルベルト・ダ・コスタ・ペレイラとMFマリオ・コルーニャを受け入れた。そして1959年にハンガリー人の名コーチ、ベラ・グッドマンにチームを、任せた。彼の指導と新加入のアフリカン・プレーヤーによって、ベンフィカは1960年にリーグ優勝(クラブとして10回目)し、60−61年シーズンのチャンピオンズ・カップに乗り込んだ。
 予備戦で、スコットランドのハーツを2−1、3−0で破り、本戦の1回戦では、ハンガリーの名門ウイペシュティ・ドージャと対戦。ホームで6−2と大勝し、アウェーでは1−2と巧みに相手の反撃を押さえて準々決勝に進出し、デンマークのアーフスにも連勝。準決勝ではラピド・ウィーン(オーストリア)を寄せつけず、ホームで3−0のあと、アウェーを1−1で引き分けて決勝へ進出した。
 決勝の相手はバルセロナ。スペイン国内でレアル・マドリーと対決するこのビッグ・クラブは、1959年、60年と2年連続してスペイン・チャンピオンとなる・59−60年シーズンのチャンピオンズ・カップは準決勝でレアルに敗れたが、この年は1回戦で宿敵(前年優勝チームとして国内リーグに勝たなくても出場できる)を倒し、準々決勝はチェコのクラローベ、準決勝では西ドイツのハンブルガーを下しての決勝進出だった。

 ベルンでのこの対戦は、ベンフィカにもバルセロナにも偉大なレアル・マドリーの後継者となる重大なゲームだったが、2−2の同点からバルセロナの名GKラマレッツのオウンゴールによってベンフィカの優勝となった。
 優秀プレーヤーを逃さないグッドマンは、この1961年の5月にすでにモザンビークのロレンソ・マルケス・スポルディング・クラブから天性のストライカーを手に入れていた。エウゼビオ・ダ・シルバ・フェレイラという19歳の若者を、グッドマンは欧州カップに投入するつもりだった。契約が遅れたため、欧州登場は次のシーズンに譲るのだが……。
 エウゼビオを得て、中盤の“将軍”コルーニャ、俊敏シモンエスのドリブルも一気に得点に結びつくようになった。長身でヘディングの名手、トーレスを加えたFW陣の破壊力はヨーロッパ随一となり、ベンフィカの黄金時代、ポルトガル黄金の60年代の幕が開く。

 欧州チャンピオンとなったベンフィかは、1961年9月4日に南米チャンピオンのペニャロールとクラブ世界一決定戦(いまのトヨタカップ)を行なった。リスボンでの第1戦を1−0で勝ち、モンテビデオの第2戦は引き分けでと考えたが、なんと0−5の大敗。当時のルールによってチームはリスボンから急いでエウゼビオを呼んだ。
 ホームでの第3戦に自信満々のペニャロールは開始5分FKから1−0。ベンフィカはハーフタイム前にエウゼビオがドリブルシュートから同点としたが、結局PKで1点を失い、1−2で敗れた。

 この大舞台でのデビュー、世界中がモザンビークからやってきた若者が生まれついてのドリブラー、生まれついてのシューターであることを知った。その素早い身のこなしと一気のスパート、強烈なシュートはまさに獲物を狙うヒョウ(パンサー)の鋭さだった。
 次の年のチャンピオンズ・カップでベンフィカは決勝に進み、ここで巻き返したレアル・マドリーと当たる。ディ・ステファーノ、プシュカシュ、ヘント、デル・ソルなど、大選手を揃えたレアルはさすがに強く、前半20分でプシュカシュが2点を挙げて2−0とリードした。
 しかし、ベンフィカはまずエウゼビオのFKがポストに当たるところ、このリバウンドをアグアスが決めて1−2。続いてクロスを相手GKと競り合ったエウゼビオが頭にボールを当て、落下したのをカバンが2点目。だが、“マジック・マジャール”プシュカシュのゴールで再びレアルが3−2とリードして前半を終了した。
 後半に入ってベンフィカは、コルーニャのシュートでまたも同点に追いつく。そしてエウゼビオへのファウルから得たPKを彼自身が決めて、ついに4−3と逆転。さらにFKのチャンスにコルーニャからエウゼビオへと渡って5−3とリードを広げた。
 1962年5月2日、アムステルダムのスタジアムに集まった6万5千人は8ゴールの応酬というエキサイティングなゲームと、新しいヨーロッパのスター誕生を見た。
 しかし、クラブ世界一となるための戦いは今度もベンフィカが涙をのむ。

 南米代表はブラジルのサントス。“ブラック・パール(黒い真珠)”ペレの卓越したプレーにベンフィカは2−3、2−5と連敗した。
 エウゼビオがペレを破るのは4年後のワールドカップまで待たなければならなかった。

 サッカーの母国イングランドで開催された第8回ワールドカップ(1966年)は見事に運営され、イングランドと西ドイツの決勝は延長戦、そして開催国の優勝という、まことにエキサイティングな大会であった。しかも全体的に守備的な戦いの多かったなかで、見事なボールテクニックとパスワーク、そしてずばりと蹴り込むシュートのポルトガルは、もっとも魅力にあふれるチームとして、大会の“華”との評判を得た。
 1958年、62年と連続優勝し、3度目の制覇を期待されたブラジルの調子が下降気味で、またペレが悪質なファウルにより戦列を離れたため、1次リーグで敗退して多くのファンを失望させただけに、ポルトガルの試合は攻撃サッカーを愛するファンに大きな救いとなった。
 エウゼビオはチームの得点17(失点3)のうち9ゴール(PK4)を決めて大会の得点王となったが、準々決勝の対北朝鮮戦で0−3からの大逆転(5−3)をはじめ、一つひとつのシュートやドリブルに強いインパクトを残した。


(サッカーダイジェスト 1991年10月号「蹴球その国・人・歩」)

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