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80年代のFCポルト

 偉大な時代なあとは、しばらく沈滞期がくる。60年代の黄金期のあと、70年代に入ると国際舞台はポルトガルから遠のく。
 1970年の大阪万博のときに、エウゼビオとベンフィカを見た私は、1984年のヨーロッパ選手権でポルトガルの復活の兆しを見た。プラティニ、ジレス、ティガナたちが最盛期のフランスは、開催国優勝を目ざして一つひとつの試合に華麗な攻撃を見せて勝ち進み、大会を盛り上げたが、そのフランスを準決勝で苦しませたのがポルトガル。
 フランス1−0のリードを終了11分前にポルトガルが同点とし、延長に入った7分、ポルトガルが2−1とリードを奪う。フランスは延長後半に同点、勝ち越し点を決めるという際どい勝負だった。かつて見たエウゼビオの破壊力はないが、コルーニャを思わせる粘り強い活動量と、ファーポストへのクロスという古典的な攻めは効果があった。

 1979年のワールドユース日本大会で、神戸会場でプレーしたポルトガルの一人、ディアマンチノが代表に入っていたのは懐かしかったが……。
 この代表チームは、次の1986年メキシコ・ワールドカップに出場し、1次リーグで敗退したが、クラブレベルでポルトガルは80年代にカムバックする。
 まず伝統のベンフィカが1983年のUEFAカップで決勝へ進む。次の年、カップ・ウィナーズ・カップでFCポルトが決勝へ。スターぞろいのユベントス(イタリア)に敗れたが、ポルトガル北部の中心、ポルト市に本拠を置くこのチームにとって欧州へのステップに自信を深める大事な年だった。

「フテボール・クルブ・ド・ポルト」は1906年に創立した古いクラブで、ベンフィカともう一つのリスボンのクラブ、「スポルティング」と共にポルトガル・サッカーの3大勢力。英国で発行されたポルトガルの案内所書にも「ポルトガル人はたいてい、この3つのクラブのどれかのファンだと思えば間違いない」とあるほど。
 この国の風土は、国の大きさこそ南北の長さ500キロ、東西の幅が200キロ弱平均と小さいけれど、地域によって気候も違い、景観や気象も違う。北部の中心地ポルト市は、イスラム風も濃く残している南部と違い、市民たちは“働き者”を自認している。

 南のリスボンに対抗するためFCポルトは強化に熱心で、有能ならコーチも選手も国籍を問わないのは、やはり港町(ポルト)の開放性だろうか。市の人口33万、周辺合わせて100万の町に6万5千収容のスタジアム。これを9万収容に拡大した年にリーグ連続優勝、翌1987年に欧州クラブ・チャンピオンの座に就いた。
 アルジェリアのマジェール、ブラジルのセウゾやジェラウドン、それにジョアン・ピントをはじめとするポルトガル代表が並ぶこのチームは、がまん強いDF、活動量豊富なMF、そして天才的なFWを巧みに組み合わせ、西ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンを決勝で破って栄冠を握ったのだった。

 彼らが世界へデビューしたトヨタカップは雪の悪コンディション。サッカーの持つボールテクニックと戦術の組み合わせの楽しみは半減したが、私たちはFCポルトと南米代表のペニャロールがボールの奪い合い、攻め合いに見せるプロフェッショナルの執念に感嘆した。
 また、雪が溶け、泥まみれのフィールドで、スリップしながらバランスを回復し、しっかりプレーする両チームに、鍛えられたスポーツマンの強さを実感したのだった。
 延長でマジェールのゴールが決まってFCポルトが勝ったこの試合は、みぞれの中で数万の観衆が最後まで見つめた試合として、日本サッカーの歴史の中に書きとめておくべき、ビッグで、感動的なゲームだった。


(サッカーダイジェスト 1991年10月号「蹴球その国・人・歩」)

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