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戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(上)

みなでサイド攻撃を語ろうと“偲ぶ会”

 兵庫県サッカー協会の村田忠男会長の提案で“鴇田正憲(ときた・まさのり)氏を偲ぶ会”が11月28日に芦屋市のホテル竹園芦屋で催されることになった。今年3月5日に78歳で亡くなったこの人は、私の最も親しい仲間の一人。神戸一中の1年生のときに私が3年生で、それ以来、65年にわたる付き合いだった。
 戦中派の例に漏れず、“ベルリンの奇跡”(1936年)を演じた先輩たちや、メキシコ五輪での銅メダル(68年)の後輩たちのような華々しい実績は乏しいけれど、彼の歩んだ右ウイング一筋のサッカー人生を振り返ることは「サイド攻撃」の重要を口にしながら、一向に効果の表れない今の日本サッカーのヒントとなるかもしれない。
 鴇田の名は、大戦直後の10余年のサッカー界で、常にサッカー人の口にのぼり、活字となった。当時の新聞社は当用漢字にない“鴇”の活字を特別に作ったものだ。
 戦前からサッカーの強い大学であった関西学院大学が、OBとその学生の混成チーム(全関学あるいは関学クラブ)で天皇杯に出場し、第30回(50年)から第39回までに5回、チャンピオンになったときも、4度そのメンバーとなり、田辺製薬が全国実業団選手権で50年から6年連続優勝し、その間に94戦93勝1分けという無敗記録をつくったときも、常に鴇田の名前があった。
 また1951年(昭和26年)のスウェーデンの強豪クラブ「ヘルシングポーリュ」の招待に始まる外国チームとの交流戦にも、51、54年の第1、2回アジア大会、54年の大戦後初の日韓戦、56年のメルボルン五輪予選などでも、彼は日本代表に欠くことのできないメンバーだった。そして関学クラブであっても、田辺製薬であっても、日本代表であっても、彼のポジションは一貫して右のウイングフォワード(FW)だった。
 鴇田の名から「トキテン」とあだ名された彼がレギュラーとなった40年は、33年からの神戸一中の第2期黄金時代で、39年までの7年間に全国中等学校選手権(現・高校選手権)に3度優勝、準優勝1回、全国招待大会、神宮大会優勝各1回という成績を残していた。しかし、40年は最上級生の5年生(旧制中学校は5年制)が3人だけで、主力は3、4年生だったから、その年、兵庫県で最強であった神戸三中には勝てず、全国選手権も神宮大会の予選もともに三中に敗れてしまった。


O脚のキックとドリブル

 鴇田をウイングにという発想は、彼のボールを蹴る形と速さとドリブルの突破力を買ってのことだった。
 3年生のときから部のマネージャーとして下級生の面倒を見ていた私は、彼が1年生の秋に近くの灘中(現・灘高校)と1年生同士の試合を行なったときに、彼が自陣からドリブルをして5得点したのを見た。相手のチームには和田津苗がいて、彼はCFでやはり一人で5得点し、5−5と引き分けた。和田は関大に進み、やがて第1回アジア大会の代表となり、田辺製薬でも鴇田とともに優勝を重ねるのだが・・・・・・。
 小柄で足が速い鴇田はO脚で、キックは横なぐりになっていた。後輩思いの高山忠雄大先輩(後の神戸高校校長)が再三、練習を指導してくれたが、まっすぐ走って、まっすぐ蹴るという高山さんのやり方は彼には苦痛のようだった。そこで私はインステップで蹴るためには、踏み込みに入るのに深い角度の方が彼には自然なことと考えてアドバイスし、その深い角度でボールを蹴る右のキックの形から、右サイドに置いてみたのだった。


基礎技術、基礎体力

 1940年のキャプテン、皆木良夫は自分たちのチーム構成を見て、無理矢理に全国大会に出るチームをつくり上げるよりも、次の世代につながるための練習として、基礎技術習得に時間をかけた。鴇田たちの学年より1年下の学年には岩谷俊夫、杉本茂雄(後の日本代表)、竹一能文、吉村宏之といった御影師範付属小学校、あるいは雲中小学校の頃から“蹴球”に親しんでいるものが多く、ボール扱いに優れていた。鴇田の学年はボールタッチはそれほどではなかったが(小学校では経験のないものが多かった)、体の強いものが多かったから、早いうちから強めの練習を積んでおけば、岩谷たちが卒業した後も、急激に力が落ちることはないと考え、しっかり練習させた(おかげで、この年度の仲間から、私はシゴキの親玉のように思われていた)。
 40年の秋、神宮大会予選で敗れた5年生が部を去り、私たちの学年の黒津主将がサッカー部を引き継いだ。それからの練習は全国タイトルの奪還が目標で、同年の夏の全国選手権に優勝した朝鮮代表の普成中学が仮想の相手だった。夏の甲子園南運動場で圧倒的な強さで優勝を手にした普成中学の一人一人のテクニックや、粘っこいプレー、足が速く、当たりの強い試合ぶりはスタンドから観戦した私の頭に深く刻み込まれた。皆木主将のチームが2度戦って、1度も勝てなかった神戸三中を相手にした決勝のスコアが4−0だったのだから・・・・・・。


朝鮮代表に勝つための400メートル疾走

 練習は体力、走力をつけること、走るだけではなく前年からやってきた肋木(ろくぼく)、鉄棒などを使っての腹筋、背筋などの強化体操、練習の合間に走る400メートル疾走などもあったし、ダイレクトキックとワントラップキックも、すべて目標の円内に落とす(通す)ことになっていた。
 ポジション別の練習ではFWのシュート本数を増やし、左右のウイングはセンタリングをまず同じところへ落とすことが要求された。3年生になった鴇田は持ち前の走力を生かして、右のインサイドの岩谷のパスを受け、一気にコーナーまで走って、ゴールエリアの逆サイド角の手前へ、ボールを送ってくるようになった。
 同じような“しんどい”練習をしても、それをやろうという気で取り組むのと、そうでないのとではずいぶん違う。鴇田はこうしたつらいトレーニングにも積極的に取り組んだ。3年生の夏頃には誰の目にも体に力が満ちているのが見えた。


鴇田正憲・略歴

1925年(大正14年) 6月24日、神戸市に生まれる。
1933年(昭和8年) 神戸市立西灘小学校入学。
1938年(昭和13年) 同小学校卒業、神戸一中入学。
1940年(昭和15年) 同中学2年生でレギュラー、右ウイングに。
             全国中等学校選手権大会(現高校選手権)兵庫県大会決勝で神戸三中に敗れる。
1941年(昭和16年) 3年生の夏、同兵庫県大会優勝(全国大会は中止)、秋の明治神宮大会で優勝。
1942年(昭和17年) 4年生の夏、第1回橿原神宮大会優勝、秋の明治神宮大会で優勝。
1943年(昭和18年) 神戸一中サッカー部主将に。夏の兵庫県大会優勝。全国大会は中止。秋の明治神宮大会も中止に。
1944年(昭和19年) 神戸一中卒業、関西学院大学に入学。サッカー部は活動中止に。
1945年(昭和20年) 陸軍に入隊、8月の終戦で復員。復学し、サッカー部も再開。
1946年(昭和21年) 第1回国体のサッカー決勝(11月、西宮球技場)に、西日本代表の関西学院大のメンバーで出場、東日本代表の東大LBを2−1で破る。
1947年(昭和22年) 関西学生リーグ優勝、東西学生1位対抗で早大に敗れる(1−4)。
             4月の東西対抗(全関東2−2全関西)天覧試合に出場。
1948年(昭和23年) 関西学生リーグ優勝、東西学生1位対抗で東大に勝つ(2−0)。
             第3回国体で全関学が優勝。
1950年(昭和25年) 関西学院大学を卒業、田辺製薬に入社。
             6月、第30回全日本選手権(現天皇杯)に全関学で優勝。
             第3回全日本実業団選手権で田辺製薬が初優勝。
1951年(昭和26年) 3月、第1回アジア競技大会日本代表に(日本は3位)。第6回国体(広島)で関学クラブが優勝。全日本実業団選手権2連覇。
1952年(昭和27年) 全日本実業団選手権3連覇。
1953年(昭和28年) 全日本実業団選手権4連覇。第33回天皇杯(西京極)で全関学が優勝。
1954年(昭和29年) ワールドカップ・アジア予選で韓国と対戦(1−5、2−2)、第2戦に出場。
             第2回アジア大会(マニラ)日本代表。全日本実業団選手権5連覇。
1955年(昭和30年) 第35回天皇杯(西宮競技場)で全関学が優勝。全日本実業団選手権6連覇。
1956年(昭和31年) 6月、メルボルン五輪予選で韓国と対戦(2−0、0−2、抽選勝ち)、第1戦に出場。
             11月、メルボルン五輪に日本代表として参加(1回戦でオーストラリアに0−2で敗れる)。
             第9回関西実業団準決勝に勝ち、公式戦94戦無敗(93勝1分け)を記録。第9回全日本実業団選手権準優勝。
1957年(昭和32年) 第10回全日本実業団選手権優勝。
1959年(昭和34年) 5月、第39回天皇杯(東京・小石川)で関学クラブが優勝。
             35歳を超え、60年代に入っても田辺製薬、あるいは東京トリッククラブなどでプレーを楽しんだ。
             田辺製薬では新潟出張所所長、札幌支店長、本社取締役などを歴任。
1986年(昭和61年) 岡山・良互薬品社長。
1990年(平成2年) 株式会社サンキ会長。
1993年(平成5年) 退職。
2004年(平成16年) 3月5日、死去。


★SOCCER COLUMN

「右足のお骨をください」
 今年3月6日に行なわれた故人の葬儀には、長沼健(元・日本サッカー協会会長)をはじめ、多くのサッカー関係者が集まった。
 その中の一人、かつての日本代表であった木村現氏が「今日は鴇田さんの右足のお骨をもらって帰りたいです」と言う。
 広島高等師範付属高校から関学へと長沼さんとともに進み、俊足のFWとしてならした人だが、「鴇田さんのようなウイングになりたいと思い、ずいぶん練習したが、とうとうあの右足の見事なセンタリングの技には及ばなかった。私にとって永遠の目標であった鴇田さんのキックを生み出した右足に、今もあやかりたいと思っている」ということだった。
 申し出を受けた家族が住職と相談したところ、将来のことを考えれば分骨ということは必ずしもよろしくない―ーとのことで、願いはかなえられなかったが、豪快なプレーで当時のライバルチームのDFの脅威であった後輩・木村の、先輩・鴇田への傾倒ぶりをうかがわせる一幕だった。

鴇田―賀川のペアプレー ボールが生きもののように往復した
 1969年(昭和44年)1月17日の報知新聞に、当時の日本サッカー協会の岡野俊一郎技術委員の「ちょっとフェイント」という書き物があり、その中に次のようなくだりがある。

「(前略)日本にも十五年くらい前にはすばらしいペアがあった。それは戦後の日本代表チームで活躍していた鴇田―賀川のコンビである。
 (中略)田辺製薬でともにプレーをされ、全関西や全日本でもつねにFWの右サイドでコンビを組んでおられたが、このコンビを完全におさえることのできるバックスは当時、日本にはいなかったほどである。
 鴇田―賀川コンビがボールをもつとボールはほんとうに生きもののように二人の間を往復し、変化のあるパスが相手バックスの間を縦横に抜けたものである。
 最近の日本代表チームや日本リーグ・チームはたしかに強くなったが、率直にいってペアということになるとまだこの鴇田―賀川コンビにはおよばない。日本リーグもことしはいよいよ五年目をむかえる。そろそろどこかのチームに鴇田―賀川コンビ以上のすばらしいペアが生まれてもよいころだと思うのだが・・・。」
(報知新聞・昭和44年1月17日号より)


(月刊グラン2004年11月号 No.128)

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