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戦後10年、ウイングプレー一筋 センタリングの神様 鴇田正憲(下)

中3、中4で全国大会連続優勝

 1941年(昭和16年)夏、神戸一中は1年ぶりに兵庫県のタイトルをとった。鴇田正憲(ときた・まさのり)は16歳になっていた。
 3年生だが、すでに1年間のレギュラー経験があり、体に力があり、技術の面でも4、5年生と変わらなかった。FWの反対側の左サイドに竹一能文というドリブラーがいた。彼はボールを自分と相手の間にポンと置いて、相手が“取れる”と足を出すより早く、そのボールを突っついてすり抜けるという非凡な技を持っていた(彼がサッカーを続けていれば、どんなプレーヤーになっただろうか)。
 右サイドの鴇田は強い体を武器に、右足の正確なセンタリング(クロス)をつくり上げた。スピードを武器にドリブルも上達した。まず、前へでるぞという脅しがあり、半身の構えから縦に突っ切るのも、中へ持ち込むこともできた。竹一ほどの初速はなく、100メートル走でもむしろ後半の方が強かったが、スタートダッシュの練習の繰り返しで、次第に初速も上がっていった。何より、隣のポジション、右のインサイドFWに岩谷俊夫(2002年11月号参照)がいた。岩谷は学年は4年生だが、チーム随一の得点能力を持つとともに、攻撃の全般をリードする技術と戦術眼を備えていた。相手DFのポジションと構えを見て、パスを裏へ通すか、鴇田の足もとへ出すか、鴇田の持ち方を見て、もう一度パスを受けるのか、そのままドリブルで突っ切らせるのかの判断もできていた。大人になってから鴇田は田辺製薬で、中学の4年先輩の賀川太郎と右のペアを組んで磨きをかけるが、16歳で同世代の岩谷と組んで2年間プレーしたことも早い時期の進歩につながった。

 私自身も、この兵庫大会からCFに入っていた。グラウンドで笛を吹いてチームの練習全体を仕切っていた私の構想では、3年生の皆木吉泰(現・兵庫県サッカー協会副会長)を置く予定だったが、チームのバランスとして5年生が一人、FWにいた方がよいという話になり、岩谷に説き伏せられたかたちで戦列に加わった。
 実際に一緒に試合してみて、彼らの技術とともに体力が、同じ中学生よりレベルが上にあることを知った。ほとんどが小学生のころからボールに親しんでいた。サッカー部(当時はア式蹴球部)でなくても昼休みには軟式テニスのゴムボールでサッカー遊びをするというのが学校全体の空気だったし、部員でもないものがサッカー部のボールを蹴るのをとがめだてしない(私が4年生になると配給制になって、ボールが痛むのを心配するようになった)時期もあったくらいだから、クラス対抗マッチではサッカー部員よりもドリブルやシュートのうまい生徒がたくさんいた。従って、サッカー部にいる者は、クラス対抗でいい顔するためにもより多く練習をし、走る力だけでも彼ら素人衆より上にいなければならなかった。


関特演で全国中学選手権中止

 当時の全国中等学校選手権大会、今の高校選手権は夏に開かれていた。兵庫県で優勝して、その全国大会で朝鮮地方代表に勝つことが神戸一中の目標だったが、1941年(昭和16年)は関東軍特別大演習、いわゆる関特演のために交通制限が行われ、7月13日以降、秋まで全国的な競技大会は中止となった。この年の6月にナチス・ドイツがソ連を攻撃して東方戦線を拡大した。すでにヨーロッパでは39年9月からナチス・ドイツのポーランド侵攻が始まり、英、仏がドイツに宣戦して大戦争に入っていた。日中戦争も続いていた。いわば非常時局のかけ声は高く、戦時色が濃厚だったが、まだ学生たちはスポーツをする余裕もあった。
 それが全国大会の中止である。サッカーだけでなく、甲子園での野球(現・全国高校野球選手権大会)も中止となった。幸いなことには、秋の明治神宮大会は例外となった。明治天皇をおまつりする神宮への奉納競技大会だからである。県大会優勝後も、夏の練習は当然力が入る。夏休みの校庭での練習には、休暇中の大学生、高校生の先輩たちが数多く集まった。母校のグラウンドで昔の仲間とともにボールを蹴り、後輩の練習相手になってくれた。時に訪れる社会人の大先輩たちとプレーすることも、若い先輩たちにとっては何よりの勉強だった。
 41年に集まった先輩たちの顔ぶれは、高山忠雄(23回卒業)、赤川(旧姓・西村)清(25回)といった大先輩(私が43回、鴇田が45回)――つまりベルリン五輪の日本代表、右近徳太郎(32回)から二宮洋一(36回)たち大学ナンバーワンのバリバリの現役から、卒業して2年目の賀川太郎の年度に至るまで、日本代表、あるいは代表候補クラスがずらりとそろっていた。
 右ウイングのポジションでは、昭和初期、東大黄金期の高山忠雄、慶應興隆期の市橋時蔵、ベルリンの万能、右ウイングが得意な右近徳太郎といった古いところから、38年のキャプテン、友貞健太郎(松山高校、京大)までさまざまなスタイルの選手がいた。若い鴇田はこれらのプレーヤーを見て、それぞれの名人、上手が、皆それぞれの型を持っていること、従って自分はそのどれかを丸写しするのではなく、自分のプレーの参考になるものを取り入れることを知らず知らずに覚えていった。


上のレベルの先輩との試合で力をつける

 基礎技術の反復、体力トレーニング、そしてポジション別のパスの組み立てなどの後、練習時間の後半部に行われる粒揃いの先輩たちとの試合は、力をつけるのに誠に有効だった。日本代表、候補のOBチームも気を緩めれば、岩谷からのスルーパスで鴇田がノーマークになることもあった。
 おかげで中学生との公式試合では、鴇田は自らのドリブルと岩谷の巧みなパスで、クロスを蹴るときはにはノーマークをつくり、余裕を持った。余裕があれば判断もよくなり、クロスのコースも多彩になる。上背がなくてヘディングの強くない私が、ニアのゴールライン近くへ走ったとき、ピタリとグラウンダーを送ってきた。それをかかとでバックパスすると、岩谷がエリア内でピシャリと決めたという得点もあった。

 秋の明治神宮大会の兵庫県予選に勝ち、近畿地区予選で和歌山代表を退け、京都の聖峰中学を破って近畿代表となった。(交通の関係で本大会は16ではなく8チームに絞った)
 聖峰中学は当時、内地にいた朝鮮半島出身の子弟が多く、39年には全国大会の決勝まで進んで、近隣では知られたチームだった。3−0で神戸一中が勝ったが、防戦の中から一発のカウンターで私が決めた先制ゴールは、鴇田がタッチライン沿いに自陣に後退しながら、DFの出してきたボールを左足でダイレクトに私の足元(ハーフライン)へ送ってきたパスがきっかけだった。大きな体のセンターバックとすれ違うように抜いて、ドリブルシュートをしたのだが、ボールを受けるときに“しめた”と思ったくらい、鴇田からのパスはいいタイミングで、しかも扱いやすい強さだった。
 明治神宮大会の本大会では、1回戦は熊本師範、準決勝は青山師範を破って念願の普成中学を相手に決勝を戦った。青山師範は後に東京教育大学(現・筑波大学)の監督を務めた太田哲男がCDFで、とても立派なチームだったが、このチームに勝てた勝てたのは両翼からの攻めの効果だった。普成中との決勝は2−2で引き分け、延長は行わず両校が1位の賞状をもらった。1点目は鴇田、2点目は私だが、鴇田がFKからのリバウンドを蹴り込んだシュートの強さには感心したものだ。
 朝鮮地方の代表に勝つという望みは引き分けで果たせなかったが、次の年に鴇田は、5年生の岩谷キャプテンたちとともに神宮大会の1回戦で培材中学を3−0で破った。準決勝で仙台一中を破り、決勝の青山師範とは2−2の引き分け、ともに1位となった。このチームは夏に学徒体育振興会が創設した第1回橿原神宮大会という、全国総合大会のサッカー中学の部で優勝した。兵庫県予選、東中国予選、本大会を通じて9試合の総得点70点、失点0という驚異的な数字を残した。技術と戦術の差が大きかったが、夏の炎天下の試合での、同年輩の中学生を相手にしたときの走力差がゴール差を広げていた。


ウイングプレーの効果を示す

 鴇田が5年生のときには、この橿原神宮大会も明治神宮大会も、全国大会は戦争のために中止となった。兵庫県大会は夏と秋に各1回開かれ、2回とも優勝した。
 戦争が終わって、関西学院大に進み、大学ナンバーワンとなり、国体と天皇杯で優勝を重ねる。田辺製薬では全国タイトルを7度獲得し、1951年(昭和26年)の第1、2回アジア大会の代表となり、54年のワールドカップ・アジア予選で韓国との第2戦(2−2)でプレーし、56年のメルボルン五輪予選、対韓国の第1戦で、彼のキープとパスから2ゴールを生んで、メルボルン五輪への道を開いていくことになる。
 こうした日本のトップチーム、代表でのプレーを通じて、鴇田はサイド攻撃、サイドからのチャンスづくりの重要さとサイドでのキープの効果を身をもって示してきた。そして、そのプレーの基礎について、彼は常にこう言っていた。「田辺製薬に入って(賀川)太郎さんとペアを組んで、新しい目を開いたのはありがたかったが、結局のところ、綿その基礎は中学生のころにあった」――と。
 中学卒業から、大学にかけて戦中、戦後の恵まれない環境にありながら、ウイングプレーの棋譜を描き続けた鴇田のサッカー人生を振り返ると、いい素材を若いうちに、あるレベルまで上げておくことがどれほど大切かをあらためて知る。17〜21歳の成長期以降の環境の整っているいま――なおさら、そう感じるのである。


★SOCCER COLUMN

200メートルのドリブルに追走者ギャフン
「君たち、この鴇田君がそこにある200メートルのトラックをドリブルするのを、1メートル後から追いかけて、ボールを奪ってみるか――」と言ったら、皆、不思議そうな顔をし、笑う者もいた。
 1949年(昭和24年)夏、同志社大学サッカー部の合宿。滋賀県大津市の小学校のグラウンドを借りての練習だった。同志社の先輩に頼まれてコーチに来ていた私は、関西学院大のキャプテンであった鴇田に来てもらった。模範プレーを示すとともに、2部から1部昇格を目指す同志社の選手たちに、トップクラスのプレーヤーの力を知らせておこうと思ったのだった。25年生まれの鴇田は、すでに47年から東西対抗の西軍のレギュラーで、日本代表候補であった。
「では、私が」と同志社のキャプテンY君が名乗り出た。旧制・京都二中のときには46年の全国大会にも出場している俊足のDF。
「ヨーイ、ドン!」で、1メートルあけて、スタートした両君。右足の先端とアウトを使っての鴇田の“ツー、ツー、ツー”という感じの軽やかなドリブルは、スタート直後はもちろん、カーブでもスピードを落とすことはなく200メートルを走りきる。Y君は結局、奪うどころか、追いつくこともできなかった。
「ご苦労さん、鴇田君、もう一度やるか」と私。「やりましょうか」と言う彼に、足自慢のM君が挑戦した。200メートル疾走直後の200メートルだったが、新手のM君も1メートルの間隔を詰められず、むしろ開いたほどだった。
 フィジカルトレーニングを低い年齢のころから始め、それがその素材とうまく合えば、信じられないほど体は強くなるという例を、このとき私自身も確認したものだ。

対朝鮮代表4戦2勝2分け
 神戸一中3年生のとき、明治神宮大会で対普成中学と2−2、4年生のときは同大会で培材中学に3−0、1954年(昭和29年)、ワールドカップ・スイス大会アジア予選、対韓国第2戦で2−2。56年、メルボルン五輪アジア予選、対韓国第1戦で2−0。
 鴇田正憲が出場した日本代表と韓国代表との試合は1勝1分け。中学生のころの朝鮮地方の代表チームとの試合も1勝1分け。
 本人にこのことを話したら、「偶然ですね」と言っていたが、私は神戸一中や日本のパス戦法に、彼のサイドでのキープ力、突破力つまりウイングプレー、サイド攻撃が大きい役割を果たしたと思うのだ。


(月刊グラン2004年12月号 No.129)

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