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サッカーのために最初にブラジルから来日、大きな衝撃を与えた日系2世 ネルソン吉村大志郎

 ネルソン吉村をご存じですか――。
 グランパスのウェズレイ、マルケスの両選手あるいはネルシーニョ監督、そして日本代表のジーコ監督や、帰化した三都主選手などを見ると、いまの日本サッカーはブラジル抜きでは語れないほどだ。その地域の反対側の遠い土地から36年前に、サッカーのために日本へ初めてやって来たのがネルソン吉村大志郎だった。関西の企業チーム、ヤンマーディーゼル(現・セレッソ大阪)を釜本邦茂とのコンビで日本のトップチームに押し上げ、日本国籍を取って日本代表チームでも活躍した。その軽妙なボールテクニックはファンを驚かせ、サッカー少年を虜にした。ブラジル流テクニックと日本的心情と優しい心を持った彼の19歳から56歳までの生涯は、まさに「このくにとサッカー」に捧げた37年間だった。この号が皆さんのお手元に届くころ、仏式でいえば彼の35日にあたる(彼自身はカソリックだったが……)。


日系人クラブの得点王

 1947年8月16日にサンパウロ近郊で生まれた日系2世、ネルソン吉村は、ブラジルの少年として当然のように幼いころからサッカーを始めた。小学生のときに、あの1958年スウェーデン大会でのブラジルのワールドカップ優勝に出合う。ラジオの前に集まった大人も子供も勝った勝ったと叫び、躍った6月29日の喜びを忘れることはなかった。
 日系人のクラブでプレーし、頭角を現した吉村は、1966年の日系2世連合会の大会で優勝し、自らも得点王となって注目されていた。たまたま彼の勤務先であった「ヤンマーディーゼル・モトーレス・ド・ブラジル」の親会社である日本のヤンマーディーゼルが、1965年に誕生した日本サッカーリーグ(JSL)に加盟し、その3年目、1967年4月に釜本邦茂を迎え入れ、チーム強化にカを入れることになった。
 釜本の同期として10人の新人選手が入社したが、チームの責任者・山岡浩二郎専務は、ブラジルからテクニックの上手な選手を加えるという新しいアイデアを持ち、ブラジルの系列会社に人材発掘を指示していた。
 系列会社から本社への転勤という形をとるとともに、サッカー特有の選手移籍の手続きもしなければならなかった。
19歳の少年にとってブラジルから日本への長い旅ではあったが、到着早々、山岡浩二郎専務に連れられて、駒沢競技場で日本代表対パルメイラスの試合を観戦、来日中のデットマール・クラマーにも引き合わせてもらった。パルメイラスには1958年ワールドカップの優勝メンバーの右DFジャウマ・サントスがいた。アマチュアのサッカー少年から見れば“雲の上”の存在のスターたちと、日本にいれば試合ができるかもしれない。初めての土地での不安の中でも、希望のわくひとときだった。
 日系人クラブのアマチュア、いわば“草サッカー”ではあったが、ネルソン吉村のボールテクニックは60年代後半の日本サッカー界では出色だった。
 特に目を引いたのが、浮き球(空中のボール)の処理のうまさだった。
 足でボールを浮かせ、相手の頭上を越して、その背後に走り込む、そのボールタッチの柔らかさと正確さは、JSLの新しい呼び物となった。
 もちろん、厳しいマークにもあった。しかし、釜本とのコンビネーションがよくなるにつれて、ネルソンと釜本のペアプレーはヤンマーの看板となり、得点源となった。
 1965、66年の2シーズン連続して下位、入れ替え戦(当時は自動入れ替えではなかった)を経験したヤンマーは、この2人とともに黄金期を迎える。1969年1月の天皇杯決勝に勝ったのをはじめ、天皇杯獲得3回(71、75年)、準優勝5回。1971年のJSL初優勝をはじめ、リーグ優勝4回(74、75、80年)、2位4回と、日本のトップチームとなった。


他チームへ影響を与えたヤンマー

 ヤンマーの充実期にはネルソンだけでなく、1969年に来日した黒人のカルロス・エステベスや日系人のジョージ小林たちの力も大きかった。彼らは現在のJで働くブラジル人選手のようにプロとしてのキャリアはなかったが、それぞれ特色を持っていた。カルロスは黒人らしいしなやかな動きで、ここというときの右サイドの突破とクロスを送ることができた。ジョージ小林は、日系人としては骨太の体で、1対1の守りに強く、また攻めに出たときにも、得意の角度から好パスを送った。2人とも、それほど多くの技を持っていたわけではないが、少年期から自然に身につけた“流れを読む”カがあり、ここというタイミングで自分の持ち味を出すことができた。それが、ほかの日本人選手にも影響し、釜本邦茂というスーパー・ストライカーを軸に、選手の個性を生かすチームをつくり上げたのだった。
 ヤンマーのブラジル人導入は、ほかのチームにも影響した。フジタ(前・藤和、現・湘南ベルマーレ)や読売(現・東京ヴェルディ)などのクラブが、プロフェッショナルの経験者を招くようになった。セルジオ越後――後に少年サッカーの指導で全国を回り、日本の技術指導にブラジル流を持ち込んだ――もそうだった。読売にやって来たジョージ与那城は、このクラブがプロ化に備える実力をつくる基礎を築いたし、ラモス留偉はJSLの終盤からJリーグヘの移行期、そして、Jリーグ初期の日本サッカーをブラジル帰りの三浦知良とともに引っ張った。
 1980年、選手生活を閉じたネルソンはコーチとして、監督としてヤンマーのために働き、少年たちに頼まれると気軽に指導した、
 1990年から2年間の監督時代は、チームにも監督にもつらい時期だったが、彼は時代の流れを読み、選手のプロ契約の採用に踏み切り、周囲を驚かせた。その第1号が森島寛晃だった。小柄で評価はそれほど高くなかったモリシに、ネルソンは望みをかけていた。チームはJSLの2部に落ち、Jリーグ入りは彼が監督を退いてから後のことになる。
 1993年に発足したJリーグは異常なほどの人気となった。ネルソンの経験と見識を評価し、プロの監督やコーチにというオファーがいくつかあったが、ネルソンは「山岡浩二郎さんが、かかわっているうちは……」とヤンマーから離れなかった。一人前の選手となり、神様のようなペレに直接会って話しができるようになったのも、三花寮の寮長であった潮(うしお)家の多恵子さんと結婚して、いい家庭が持てたのも、すべて日本に来たから――そのきっかけをつくってくれた山岡さんを裏切ることはできないと思っていた。
 彼が愛したヤンマー・サッカー部はやがて本社から離れ、株式会社大阪サッカークラブとなり、セレッソ大阪がスタートした。
 そのセレッソのために彼はスカウトとして働き、後進の面倒をみたが、身分はヤンマーディーゼルの社員のままだった。ただし、サッカーへの熱意はサラリーマンではなくプロそのもの。「若い選手はみな上手だ。しかし練習が足りないし、自分でもっと考えないといけない」が口癖だった。
 入院中も元気だった。急逝する前日にも、大久保嘉人のサインがほしいと頼まれたから、家にあるのを持ってきてほしいと多恵子夫人に連結があったという。
 大好きなサッカーで、ブラジルと日本という大好きな二つの国の懸け橋になったネルソン吉村。彼を見たファン、彼と一緒にプレーした少年たちは彼を忘れることはない。


吉村大志郎・略歴

1947年 8月16日、日系2世としてブラジルに生まれる。
1967年 6月、来日してヤンマー・サッカー部に。
      彼より2ヶ月前に釜本邦茂が早大を卒業して入社、2人を中心にヤンマーは日本のトップチームとなる。
1969年 1月、天皇杯優勝。以来、ヤンマーは優勝2回(71、75年)、準優勝5回。
1970年 日本国籍を取得。日本代表選手となり、76年に代表を退くまで101試合に出場10得点(うちAマッチ45試合7得点)。
1971年 日本サッカーリーグでヤンマーが初優勝。以来、74、75、80年にも優勝、2位も4回(68、72、78、82年)。
1980年 選手を引退、ヤンマーのコーチに。
1990年 ヤンマーの監督に就任(91年に森島寛晃がプロ契約で入部)。
1996年 大阪サッカークラブ(セレッソ大阪)のスクール・コーチに。
2000年 大阪サッカークラブの総括部スカウト担当。
2003年 11月1日、急逝。


★SOCCER COLUMN

ポケットから二つ折りのクツ ネルソンのカルチャーショック
 ネルソン吉村が初めてヤンマーの仲間たちと顔を合わせた日、彼は神崎工場のグラウンドに現れると、パンツの後ろのポケットから二つ折りにしたサッカーシューズを取り出して、皆を驚かせた。
「ブラジルでは柔らかいクツを履いて、素足のような感覚でボールを扱う」とは聞いていたが、クツ底が二つ折りできるほど柔らかいとは――彼によってもたらされた最初のカルチャーショックだった。
 この少し後に、彼は三重県上野市のサッカー講習会に招かれた。さまぎまなボールテクニ、ックを披露した後で、あるコーチが彼にフェイントの型を見せてくれと頼んだとき、ネルソンは困った顔をして、こう言った。
「フェイントの型? だれもいないところでやるの? 相手がいないとボクはできないよ」
 小さいころから、相手とボールを取り合う中で、自然にフェイントをかけ、相手をかわしてドリブルするようになった吉村にとって、相手なしで型を示すということは、とても難しい話だった。サッカーを“教わって”成長してきた当時のコーチたちにとって、遊びの中で、自然にドリブルやフェイントを身につけた日系2世は、やはり一種のカルチャーショックだったに違いない。

釜本に影響を与えた胸のトラッピング
 メキシコ・オリンピックの得点王となった釜本邦茂は、右45度からのシュートやニアポストヘ叩き込む右足のストレートパンチに優れていた。その右足の振りの速さを恐れて、カバーに入る相手には、切り返して左のシュートの武器があった。そしてまた、ヘディングが抜群だった。高いボールに強い彼の特性は胸のトラッピングとなり、胸でボールを止め、下に落としてシュートする「胸のトラッピングからのシュート」は一つの芸術品でもあった。しかし、これは彼がネルソン吉村のプレーから学んだこと。
 ネルソンが胸でボールを止めるとき、弾ませないで、するりと足元へ落とすのを見て、彼はネルソンとボールのやりとりの練習を続け、胸で止める動作を観察し、そのコツを身につけた。
 この技がメキシコ・オリンピックでも発揮され、彼のゴール量産の技術の一つとなった。後に来日したセルジオ越後が釜本の胸のトラッピングからシュートヘの見事さに感嘆し、自分もと鏡の前で練習したというエピソードがある。
 釜本もまた、ネルソンにカルチャーショックを受け、それを自分のものにした一人だった。


(月刊グラン2004年1月号 No.118)

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