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W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(上)

2002年6月14日

「俊さん、いや会長、おめでとう」と手を出した私に「ありがとうございます」と丁寧な言葉とともに、笑顔と握手が返ってきた。
 2002年(平成14年)6月14日、大阪の長居スタジアム、チュニジアを2−0で破った日本代表とともにミックスゾーンを通る岡野俊一郎日本サッカー協会会長(当時)を見送る私に、某記者がささやいた。
「会長のあのような人間的な笑顔を見たのは初めてです」
 ワールドカップ開催時期の会長となり、日本代表についての全責任を負う立場となった岡野俊一郎は、それまでに十分な実績と経験を積んでいても、やはり大変だったに違いない。
 後に、この日のことを振り返り、「日本が1次リーグで勝ったとき、もちろんうれしかった。そして、ほっとしたと同時に竹腰さん、小野さん、川本さんたち、多くの亡くなった先輩たちに、この勝利を見せたいと思った」と語っている。
 大会終了後、会長を退いて名誉会長となり、今は東京・上野の和菓子の老舗、岡埜栄泉の代表取締役として店の7階にある総務室が仕事場だ。しかし、国際オリンピック委員会(IOC)委員、日本オリンピック委員会(JOC)理事、東アジア・サッカー連盟会長、日本サッカーミュージアム初代館長、ラジオ体操連盟会長――といった肩書が示すとおり、サッカーだけでなく、日本のスポーツ界の顔として幅広い活躍を見せている。
 その70年の歩みをたどり、“素顔”をのぞいてみよう。


都立五中で全国中学選手権へ

 俊さんが本格的にサッカーを始めたのは、1946年(昭和22年)4月、都立五中の3年生になってからだ。その前年の8月15日、あの大戦争が終わって焼け野原となった東京に平和が蘇(よみがえ)り、五中の校技であったサッカーの部活動が再開されたのだった。
 小学校は下谷区(現・台東区)の黒門小学校。落語家が多く住む界隈だった。スポーツ好きで、店の野球チームをつくった父、隆太郎の影響で、幼いころからスポーツに親しんだ。水泳は3歳から、スキーは4歳から、野球は小1から。剣道は小5から学校の正課だった。都立五中の1年生のときはまだ部へ入らなかったが、学校の中庭でテニスボール(硬式)で友人たちと休み時間に“蹴球”をするようになっていた。
 五中サッカー部は、慶応サッカー部の戦前の黄金期を築いた松丸貞一、東大と日立製作所(現・柏レイソル)で活躍した大内弘といった明治40年代生まれの大先輩のころからサッカーが盛んで、東京高等師範付属中学と並ぶ、関東での名門校だった。
 俊一郎の入部は、友人の山本信孝に誘われたのがきっかけ。後に経済界の大物になった山本は1年で部を辞めるが、誘われた方はすっかりサッカーにはまり込んでしまう。
1947年(昭和22年)12月、戦前からの全国中等学校サッカー選手権(現・高校選手権)が復活し、阪神間の西宮球技場で開催された。この第26回大会には、東京都予選に勝った都立五中も参加した。16チームによるノックアウト・システムの大会は、中国代表の広島高等師範付属中が庄倒的な強さで優勝した。その広島付中と1回戦で当たり、五中は0−5で敗れた。このときの広島付中にいたのが長沼健(日本サッカー協会第8代会長、現・名誉顧問)だった。
「木村、長沼、樽谷というFWの右サイドがものすごく速く、どのチームも大差で負けた。それでも前半は0−0の互角だったのは、うちだけだと言い合ったものだ」
 日本サッカーの興隆に50年以上カを合わせたパートナー、俊さんと健さん(長沼)の初めての出会いだった。


全国大会で東大が優勝

 入学した黒門小学校は、卒業するときには黒門国民学校と名を変えていた。都立五中は学制改革で都立五高となり、小石川高校と改まる。その小石川高校を1949年(昭和24年)に卒業するころには、岡野俊一郎の名は関東の高校サッカーの仲間で知られるようになっていた。「うちの大学でサッカーをやらないか」という声もかかったが、東京大学の理科2類を受けたら、一発で合格した。
 駒場で合格発表を見た後、御殿下の東大グラウンドに行ってみると、サッカー部が練習している。で、入部を申し込み、入学式もすまないうちから部員と一緒にボールを蹴った。
 やがて関東学生選抜チームにも選ばれるようになる。それはいいが、試合日が期末試験の前日といった不都合も起こり、またカエルの解剖になじまないこともあって、ドクターの道をあきらめ、文学部へ移った。
 東大の古い先輩で、サッカーの大先達であった竹腰重丸も、旧制山口高等学校から東大に入ったときは医学部薬学科だったが、海外試合などで実験を休むことが多く、薬学から実験のない農業経済へと学部を変えたという話が伝わっているが、俊さんのサッカーヘの傾倒もこうして次第に深まっていく。
 昭和の初期には関東大学リーグのリーダーであり、早稲田、慶応が台頭した後も、彼らと優勝を争ってきた東大サッカー部も、1951年(昭和26年)あたりから低迷し、1952年(昭和27年)のリーグは初めて最下位となった。新聞の記事にも「頼りになるのはCFの岡野ひとり……」などと書かれたりした。そうした部員たちが、1953年(昭和28年)1月に新しく生まれた全国大学大会(現・大学選手権)に出場して優勝し、周囲を驚かせた。卒業を前に部を離れるはずの者も復帰してベストメンバーを組み、リーグで負けた中大、立教、早大などを破っての優勝だった。
「1回戦の相手が京都学芸大学、後に山城高校で釜本邦茂をコーチする森貞男たちがいた。これに5−0で勝って波に乗り、決勝で早大を破った。僕のプレーヤーとしての一番うれしいときだった。決勝で2点も決めたし、準決勝の対立教、1−0のときも僕のゴールだった。準々決勝の相手は中大で1点目は僕が取り、その後、3点奪われて1−3。そこから仲間の西本(東大仏文の教授)が2点入れて追いつき、柴沼君というこれまで1点も入れたことのないのが延長でゴールして4−3で勝った」
 72歳の今も、この回想は至福のときとなる。
 このときの活躍ぶりが認められ、選手・岡野は1953年夏の国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)の日本代表学生チームに選ばれる。
 そして、この初めてのヨーロッパでの経験が岡野俊一郎を“日本のスポーツの顔”に向かわせることになる。


岡野俊一郎・略歴

1931年(昭和6年) 8月28日、東京都生まれ。
1938年(昭和13年) 4月、下谷区(現・台東区)立黒門小学校入学。
1944年(昭和19年) 4月、都立五中(旧制)に入学。
1947年(昭和22年) 12月、第26回全国中等学校サッカー選手権(現・高校選手権)大会に出場、広島高等師範付属中に敗れる。
1949年(昭和24年) 3月、都立小石川高校卒業。
             4月、東京大学理科2類に入学、東大サッカー部に入部。
1953年(昭和28年) 1月、第1回全国大学大会(現・大学選手権)で東大が優勝。
             8月、国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)の日本代表として参加。
1957年(昭和32年) 3月、東京大学文学部心理学科卒業。
1961年(昭和36年) 1〜3月、西ドイツヘコーチ留学。
             4月、第3回アジアユース大会日本代表チーム監督。
1962年(昭和37年) 12月、日本代表チームのコーチとして、長沼健監督とともに東京オリンピック出場を目指す。
1964年(昭和39年) 10月、東京オリンピック日本代表コーチ。
1968年(昭和43年) 10月、メキシコ・オリンピック日本代表コーチ、3位、銅メダル獲得。
1970年(昭和45年) 3月、日本代表監督に就任。1971年(昭和46年)10月まで。
1974年(昭和49年) 10月、日本サッカー協会理事。同年、日本オリンピック委員会(JOC)常任理事。
1977年(昭和52年) JOC総務主事。
1979年(昭和54年) 国内オリンピック委員会連合(ANOC)理事。
1987年(昭和62年) 日本サッカー協会副会長。
1989年(平成元年) JOC専務理事に。
1990年(平成2年) 9月、国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任。
1995年(平成7年) 4月、国際サッカー連盟(FIFA)のオリンピック・トーナメント組織委員会委員。同年、ワールドカップ組織委員会委員。
1998年(平成10年) 7月、日本サッカー協会会長。
2002年(平成14年) 5月、東アジアサッカー連盟の初代会長に就任。
             7月、日本サッカー協会名誉会長。
2003年(平成15年) 11月、日本サッカーミュージアム初代館長。


★SOCCER COLUMN

和菓子の老舗、上野の岡埜栄泉
 岡野俊一郎は東京の北の玄関、JR上野駅・広小路口の真向かいにある和菓子店、岡埜栄泉の5代目当主。株式会社岡埜栄泉の代表取締役である。創業は1873(明治6年)で、サッカーの歴史ではイングランドサッカー協会(FA)誕生(1863年)の10年後であり、第3代国際サッカー連盟(FIFA)会長、ジュール・リメの生まれた年にあたる。
 そのリメ会長が提唱し、開催したワールドカップの第17回大会の開催国のサッカー協会会長を務めたのだから、岡野家とサッカーは目に見えない力でつながっていたのかもしれない。
 繁盛した本店から“のれん分け”した店が次々生まれた。電話帳を見れば、都内だけで40ものそれと知れる和菓子店がある。ただし、屋号も名字も“おかの”というのは本家だけである。
 5年ばかり前に、“のれん分け”した新潟の店の100年祭があった。そこには、美濃紙に書かれた「菓子の作り方」や古い「はっぴ」なども残っていたそうだ。本家の方は関東大震災と大戦中の空襲によって、2度も破壊され、残念ながら資料は残っていないのだが……。

中学2年生で過酷な戦争体験
 下谷区立黒門小学校4年生のとき、太平洋戦争が始まった。
1945年(昭和20年)2月25日、上野の店は空襲で全焼した。谷中にあった隠居所も3月4日の空襲で、これは爆弾でつぶれた。当時、都立五中の2年生だった俊一郎は、学校から帰ったら家がなく、蔵だけが残っていて、大きな水たまりができていたのを覚えている。幸いなことに、一家は防空壕に入っていたため、大きなけがもなかった。家族は疎開することになり、水上温泉で経営していた旅館に移ることになった。しかし、五中を変わらないと俊一郎は言い張り、自分だけ根岸にある母親の叔父、つまり大叔父の家に居候した。
 五中では米軍の上陸作戦に備えて爆弾を抱えて戦車に体当たりするといった訓練もした。終戦となり、家族が帰ってくるまでの間、友人の家を借りて一人で暮らし、自分で弁当を作って学校へ通っていた。
 上野から日本橋まで一望できるほどの焼け野原。2月10日の大空襲のときには、多数の死者が出て、その死体が上野の山に集められていた。そんな光景を目のあたりにしたのだから、中2ですでに修羅場を経験したことになる。


(月刊グラン2004年2月号 No.119)

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