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W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(下)

 日本代表チームのコーチをし、その強化のための海外遠征や合宿練習などの計画から、対戦相手国の協会、相手となるクラブとの交渉、日本代表選手が所属するチームを持つ会社や学校への了解を取る――自分でガリ版も切り、タイプライターを叩いて膨大な量の仕事をこなした岡野俊一郎コーチは、長沼健監督とともに、当時としては最高の“オリンピック銅メダル”を手にした。このメキシコの成功には、八重樫茂生(やえがし・しげお)を軸とした“東京”以来同じ顔ぶれの選手たちのチームワークがあった。クラマーのサポートもあった。JFA(日本サッカー協会)あげてのバックアップもあった。
 そうしたなかでも、日頃、選手たちと触れ合う長沼、岡野の献身的な働きが大きいのは誰もが認めるところだ。
 技術的にはメキシコ・オリンピック参加16ヶ国のなかで一番劣るといわれたチームが3位になるためには、どのように戦ったか――その頃、協会の機関誌に掲載された岡野リポートには、相手の分析、作戦と、その成否が克明に書かれている。テレビ放送での数々の実績(前号を参照)とともに、彼は活字でのサッカー解説でも立派な仕事を残した。


JOC専務理事からIOC委員に

 若くして日本代表のコーチとなり、その後は監督も務めたが、1974年(昭和49)、若返りをはかるJFAの理事となる。それとともにJOC(日本オリンピック委員会)の常任理事にも名を連ねる。
 多くの日本のスポーツマンの古くからの憧れであったオリンピックでの日本の不振、そしてまた、オリンピックそのもののアマチュア主義が揺らぎ、国際的な緊張によって開催も影響を受けていたこの時期、国際派で、世界ナンバーワン競技・サッカーでオリンピックの成功者、岡野は、JOCでも頼りにされる存在となり、3年後にはJOC総務主事の重責を担う。
 その2年後、彼は各国の国内オリンピック委員会の連合体ともいうべきANOC(国内オリンピック委員会連合)の理事に就任する。サッカーの国際派は、オリンピックの仲間との交流の輪を広げた。やがてJOCの改革が進んで、独立した法人となり、89年8月7日「財団法人日本オリンピック委員会」が設立された。岡野がその新しいJOCの専務理事となる。そしてついに、90年、清川正二氏のあとを受けて、IOC(国際オリンピック委員会)の委員に就任した。
 IOCは「全世界にオリンピック運動を推進し、4年に1度、世界の若人を集めてオリンピック大会を主催し、競技を通して若者たちが相互理解を深め、ひいては世界平和に寄与する」という提唱者、クーベルタンの理念を行うのが仕事。いわば世界最大の総合スポーツ大会の主催者――そのメンバーは誠に希少である。
 以来14年、今もIOC委員会のプログラム委員(オリンピックの競技種目の決定にかかわる)として、ますます仕事の幅は広がっている。


ワールドカップ招致へ

 JOC、IOCとオリンピックの仕事を持っていても、岡野にとって出自のJFAは最も大切な働き場だった。1987年に長沼とともにJFAの副会長に就任した岡野は、サッカーの活性化、93年のJリーグ発足にかかわるとともに、94年に会長となった長沼を助けて、ワールドカップ招致に向かって力を冬くす。招致活動で、先行したはずの日本が、韓国の巻き返しにあって苦戦の最中だった。招致委貝会の委員長となり、劣勢挽回(ばんかい)をはかるために、まず、その理念の確立から始めた(前号参照)。
 激烈な日本と韓国の招致活動は、96年のFIFA(国際サッカー連盟)による共催決定となる。
 招致活動の実際の責任者、長沼JFA会長は98年のフランス大会が終わると辞任し、岡野が第9代会長に就任した。2002年大会を成功させる開催国協会の会長としての役割を2期4年間やり遂げた。
 ワールドカップを招致し、大会を運営し、成功させる――それは単なるサッカー協会だけの仕事でなく、日本という国をあげての取り組みが必要となる。国を動かすためには行政の仕組みを知らなければならない。こういうときに、メディア、政界、官界、経済界での岡野の人脈が生きた。


トルシエ解任の理由はない

 開催国協会の会長として、日本代表のグループリーグ突破は最低の目標だった。それも果たすことができた。
 会長に就任したときには、代表監督はすでに協会の技術委員会でほぽトルシエに決まり、契約を交わすだけになっていた。そのとき、岡野は二つの条件を出した。1)日本文化を勉強し、日本人のメンタリティを理解すること、2)選手と話すとき、できるだけ英語を使うこと――トルシエはこれに納得してサインをした。彼はある意味で典型的なフランス人で、プライバシーを大切にする。理論家でしゃべりだすと止まらない。それがメディアに追っかけ回されてプライバシーが守れない。協会がバックアップしてくれないと言い始める。解任説が取り沙汰(ざた)され、ついに1面で報じる大新聞もあった。
「私は日本代表のチームカが下がったら、監督を代える。チームカが上がっている間は代えない」と岡野は言っていた。「結果を見ると、成績は上がっている。U−20で(世界の)決勝までいった。オリンピックはベスト8。アジアカップは優勝、コンフェデレーションズカップは決勝まで進んだ。辞めさせる理由はないじゃないか」
 協会の内部にも解任派はいた。しかし、続けさせるなら、彼のやりやすいような体制をとるべきだ――となった。
 冷静な会長判断で解任説は消え、トルシエはワールドカップでグループリーグ突破をクリアした。しかも2勝1分けで1位だった。その後、トルコに敗れたのを残念に思う人も多いが、若年層に的を絞ったチーム強化は見事に成功したのだった。
「トルコよりも、私はブラジルと当たってほしかった。あの頃、ブラジルはまだ調子が出ていなかったから……。それにトルコ戦の前に主審を見ると、コリーナだというので嫌な予感がした。というのは、記録を見ると、トルコはヨーロッパでコリーナが審判をした試合は7連勝している。こうなると、トルコの選手にとっては(験がいいので)しめたとなる。試合前に、私はコリーナに『ちゃんと(反則を)取ってくれるだろうな』と冗談めかして言いましたがね」
 会長になっても、かつてコーチとして試合前に情報を収集し、分析した戦略家の顔は、まだ残っていたらしい。


IOCとべースボール

 ワールドカップの頃は、IOCの仕事もあまりできなかった。新しい規則では定年は70歳だが、これは規則ができてからの委員に適用され、岡野は別のルールで定年は79歳と決まっている。それまでは続ける気はないと言いながら、大会の開催競技を決めるプログラム委員会のメンバーとして、大切な仕事がある。アテネ大会の野球には長嶋茂雄が音頭を取って、プロの強チームを送り込むことになったが、競技種目を少なくしようという傾向にあるオリンピックでは、その対象に野球、ソフトボールと近代五種が挙がっている。
 野球は1984年のロサンゼルス大会のときに、エキシビション競技に採用され、アメリカを破って優勝した。このとき、JOC総務主事だった岡野は「エキシビションでも出場する以上は、JOCから派通する。そのためには日本の野球を統括する組織がなければならない」と関係者に全日本アマチュア野球連盟をつくることをアドバイスして、参加の道を開いた。ある時期、停滞気味だったプロ野球が、アメリカの大リーグでの日本選手の活躍で今、人気を取り戻しているが、その一番手となった野茂英雄は、次のソウル・オリンピックに参加し、世界への目を開いた。彼らのメジャーリーグヘの挑戦は、このロサンゼルス・オリンピックが伏線になったといえる。
 野球は日本では古くから大衆に根を下ろしたスポーツであっても、世界では普及度が低く、そのため、オリンピックでも軽く見られがちである。
 大正生まれの私と同年代の球界の大長老、球団のオーナーたちの関心は低いが、長嶋茂雄や野村克也たちの世代は、オリンピックは野球にとっても重要だと見ている。
 岡野はこうした野球人の熱意にも応えたいし、優勝を目指すソフトボールの選手や関係者のためにもプログラムから外されないことを願っている。ヨーロッパの委員がほとんどの委員会の空気は、日本で想像するよりもはるかに難しいのだが……。


★SOCCER COLUMN

日本のIOC委員 95年間に12人
 現在のIOC委員は、岡野俊一郎(日本サッカー協会名誉会長)と猪谷(いがや)千春(1956年、冬季オリンピック・スキー回転競技銀メダリスト)の2人。
 岡野は90年に清川正二委員の後任として、猪谷は82年、竹田恒徳委員の後任として選ばれている。
 この2人を含めて、これまで日本人でIOC委員に選ばれたのは合計12人である。10人の先人の名は次の通り。

▽嘉納治五郎
 柔道の講堂舘の創設者で、初代大日本体育協会会長。東京高等師範の校長を務めた。オリンピック提唱者のクーベルタンの薦めで09年に日本人初のIOC委員となり、12年のストックホルム大会に2人の選手とともに団長として初参加した。

▽岸清一
 第2代の大日本体育協会会長。現在、東京・原宿にある岸記念体育会館は、岸会長の寄付によって、お茶の水に建てられた同名の会館を東京オリンピックのときに移転したもの。

▽杉村陽太郎
 スポーツを愛した外交官。40年の東京オリンピック(後に第2次大戦のため中止)招致に尽力。

▽副島(そえじま)道正
 日本バスケットボール協会会長。岸清一の後任として委員に。

▽徳川家達(いえさと)
 杉村陽太郎の後任。40年の東京大会招致に尽力。

▽高石真五郎
 毎日新聞社会長。永井松三とともに、嘉納、徳川の後任となる。

▽永井松三
 外交官。大戦後、日本スポーツの国際復帰に努力。

▽東龍太郎
 日本体育協会会長。永井の後任として50年に選ばれる。東京都知事のときに、64年の東京オリンピックを迎えた。

▽清川正二
 国際水連名誉主事。東の後任。

▽竹田恒徳
 元皇族、日本スケート連盟会長。


野球の始球式 大会中のスキー
 野球がオリンピックの正式種目になったのが、1992年(平成4年)のバルセロナ・オリンピックのときだった。3位決定戦の日本対アメリカの試合を岡野が観戦に行くと、国際野球連盟のボブ・スミス会長がいて、「オカノ、始球式をやってくれ」と言うので、生まれて初めて始球式をした。そのときのボールは、今も自宅に残っている。
 冬季オリンピックではスキーを楽しんだ。競技は午前中、アイスホッケーは夕方からで昼食前後は時間がとれる。IOCからつけてくれるアシスタントもたいていはスキーが好きだから、滑りに行くと言うと、喜んでついてきてくれた。アルベールビル(フランス)やリレハンメル(ノルウェー)では滑ることができた。


(月刊グラン2004年4月号 No.121)

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