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W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(続)

長沼健との好コンビ

「賀川さんはシンガポールヘ行くのですか。うちの社は東京の記者が行きます。私はアテネヘ行くことになっています」。ある新聞社(大阪)の記者との会話である。
 今やメディアにとって、サッカーはワールドカップの予選へも人を特派し、オリンピックでもサッカー担当を送り込まなければならぬ“事件”となったようだ。100年におよぶ日本のサッカー史のなかで、今ほどメディアに注目される時期はなかったはずだ。
 最近では「月刊グランの連載を参考に映像番組を作りたい」という申し入れが複数あった。サッカーの昔話にもメディアの目が向くということらしい。
 その日本サッカー史の1964年(昭和39年)の東京オリンピックから2002年(平成14年)のワールドカップまでの40年におよぶ長い間、日本代表チームのコーチ、サッカー協会(JFA)理事、副会長、会長として、協会の運営とワールドカップの招致と開催にかかわってきた岡野俊一郎(現・JFA名誉会長)について、これまで紹介してきたが、この人のサッカーの成功物語で忘れることのできないのが長沼健(現・JFA最高顧問)とのコンビである。


同世代、同じ大会、ドルトムント組

 1930年(昭和5年)9月5日生まれの長沼健(健さん)は岡野俊一郎(俊さん)より1歳上で、初めての出会いは戦後すぐの47年12月に西宮球技場で開かれた全国中等学校(旧制)サッカー選手権(現・高校選手権)での1回戦。健さんの広島高等師範付属中学が5−0で健さんの東京都立五中を破り、この後も破竹の勢いで勝ち抜いて優勝した。
 負けた俊さんの印象は「ともかく相手はFWに足の速い選手がそろっていて、歯が立たなかった。それでも前半0−0だったのは、この大会ではうちのチームだけだった」。
 健さんは「練習を見たら、やっぱり東京の選手は上手に見えた。そのなかでも、俊さんは目立っていた。戦ってみたら、格好は悪くても、うちの方が速かった」。
 2人が同じチームに入るのは、53年夏のドルトムントで行われた学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)の日本代表。健さんは関西学院大を卒業して中央大に入学した年、俊さんは東大在学中だった。
 このとき、2人が受けたスポーツマンとしての感動と、サッカーという世界の広さ、大きさを感じたことが、2人を終生、このスポーツと結びつけることになる。直接的には60年にデットマール・クラマーが、東京オリンピック出場に向けての日本代表の強化のために来日し、指導を続けているうちに、長沼と岡野に指導者としての資質があることを見抜き、当時のJFAのトップに進言、オリンピックが2年後に迫った62年12月に、2人が代表チームの監督、コーチになったことが、このコンビのスタート。
 このコンビは、68年のメキシコ・オリンピックまで続き、銅メダル獲得という大成功を成し遂げる。
「コーチ岡野の“知将”としてのチーム戦力の分析、相手の情報収集から、それへの対応、作戦計画の立案――彼なくしてメキシコの成功はあり得ない」というのが健さんの弁。
「中国風にいうと健さんは“大人(たいじん)”です。彼の寛容さがなければ、チームは一つになれなかった。僕は時にしたいようにし、言いたいことも言ったから、摩擦もあったが、それを健さんがうまく包んでくれた」
 デットマール・クラマーという“全能”の大コーチからすべてを学ぶためには、俊さんの語学力と熱意がなければならなかった。そのクラマーのヒントから、日本リーグという初めての全国リーグを立ち上げるためには、健さんの行動力と多くの仲間をまとめる力がなくてはならなかった。そして、各チームの技術、戦術のアップには、俊さんの鋭い批評と各チームヘのアドバイスがなくてはならなかった。それもまた、銅メダルの伏線となっていた。


下戸とハシゴ、シンプルと多彩

 健さんはタバコは吸わない、アルコールは1滴もやらない、マージャンもしない。それでいて「酒を飲んでくどくど言う、僕らの話を健さんはコーヒーを飲みながら、何時まででも付き合ってくれたのです」とは、2人とともにコーチとして働いていた平木隆三(関学→古河電工、元・グランパスエイト監督)の話。
 飲んでハシゴの話なら、若いときは人後に落ちなかったという俊さんは、そのアルコール好きのおかげで、交際範囲をどんどん広げていった。サッカーの放送で各放送局を回っていたとき、そこここに、新宿の夜間大学(飲み屋のこと)での知り人合いがいた――という詰もあったほどだ。
 そして、その多方面での交際が、後にサッカーとJFAの幅を広げ、ワールドカップという大仕事をやってのける強い味方になっていった。


性格が異なっていて互いに長所を認めた

 前に健さんにこういう質問をしたことがある。「40年も一緒に仕事をしてきて、その時々に、意見の相違もあったことだろう。そんなときに、もう、この相手とは一緒にやりたくない、などと思ったことはありませんか」と。それに対して健さんは「まったくなかった」と答えた。健さんによると「2人はそれぞれ違ったタイプ。違った性格だから、ここまでうまくやってこれたということもあるが、互いに良いところ、持ち味を認めていたからだろう」。
 1976年(昭和51年)から、JFAの専務理事となった健さんが協会財政の立て直しに悪戦苦闘している一方、俊さんはJOC(日本オリンピック委員会)の常任理事となり、やがて総務主事となる。JOCの仕事が忙しくなれば、サッカーの方へのかかわりが少なくなるのは当然。やがてIOC(国際オリンピック委員会)委員就任との噂をされるようになると、健さんは「岡野のような立場の人はIOC委員に適任だし、サッカー界のためにもいいこと」と受け止めた。
 87年に2人そろってJFAの副会長になったときも、俊さんは「しばらくJFAの仕事から離れていたことを、皆さんが了解してくれるのなら」ということで、JFAの要職に戻り、94年からワールドカップ招致の仕事に取り組んだのだった。


今、思う先輩の若返りの決断

“情”の健さんと“知”の俊さんのコンビは、JFAの第8代会長(1994〜98年)長沼健、第9代会長(98〜2002年)岡野俊一郎とそれぞれがJFAのトップを務め、今、引退して、第10代会長川淵三郎の仕事を見守る立場となった。
「本当にいい時期に巡り合い、ワールドカップ開催時の会長までやらせてもらった。人は一人では何もできないけれど、いい仲間に出会えたことでやってこれた」と俊さんは振り返る。
 その俊さんが近ごろ思うことは、かつての先輩たちのことである。
「1953年(昭和28年)、まだ日本全体が豊かでなかったときに、学生たちをヨーロッパヘ送り、ドルトムントの大会だけでなく、パリやロンドンを回り、見聞を広めさせた度量の大きさや、30歳そこそこの長沼や私を東京オリンピックの監督、コーチにして、代表をまかせた決断力は、今、考えてもすごいことだったと思う。JOCに関係していることもあって、各競技団体の人たちからそれぞれの協会の改革などについて相談を受けることがあるが、そのときに、いつも私たち若い者にまかせてくれた竹腰重丸(たけのこし・しげまる)さんや小野卓爾(たくじ)さん、川本泰三(たいぞう)さんたちのことを考えます。そしてまた、当時の日本のスポーツ界では考えられなかった外国からコーチを招くということにも、明治生まれの野津謙(のづ・ゆずる)会長が自ら交渉に行かれたのです。サッカーの先輩たちはえらかったのだなあと、つくづく思うのです」
 長沼、岡野時代が長すぎて、改革が遅れたという見方もできるが、日本の社会全体、オリンピックを含むスポーツ界の流れから見て、川淵三郎を中心とする次世代のプロ化への決断と実行は遅かったとはいえない。ぎりぎりの時期であったといえるかもしれない。しかし、ワールドカップ開催問題をひかえてのプロ化は、ぎりぎりの時期であったからこそ、成功したともいえる。

 プロ化とワールドカップ開催によって、サッカー界は完全に様変わりした。
“愚者は経験にのみ頼り、賢者は歴史に学ぶ”――は評論家が好んで口にする言葉だが、ワールドカップでサッカーファンになった人たちも多いし、メディアのなかには東京オリンピックが日本サッカーの歴史の出発点としか見られない者もいる。JFAミュージアムの岡野俊一郎館長は、プロトコル(外交上の儀礼)に必要だというだけでなく、その豊かな知識も、世界に誇るミュージアムに大切ともいえるだろう。


★SOCCER COLUMN

勝利の美酒 飲めない話、飲んだ話
「1968年(昭和43年)のメキシコ・オリンピックの3位決定戦でメキシコを破り、選手村に帰ってきて、しばらくしてワンタン(渡辺正=故人)たち数人がやってきて、『今夜は飲みに行きましょう。もう試合もないからいいでしょう』と誘ってくれた。
 本来なら『さあ、行こうか』となるのだが、行けなかった。手と足がしびれて、痛みを感じていた。ベッドに寝転んで手と足を上げて振って、血の流れを良くしてみたが、それでもなかなか良くならない。だから『俺は遠慮するよ』と、そのまま眠ってしまった。翌朝、選手たちがやってきて『昨夜は飲みましたよ。どこでもタダ酒です。メキシコ人がおごってくれた』と喜んでいた。
 どうやら試合中、頭に集中していて、神経がやられていたのが原因だったのでしょう」(岡野俊一郎)
 一番うれしかった日に美酒も飲めなかったとは、コーチの業(ごう)ともいうべきか。
 もっとも、メキシコに行く前に銀座のバーで、勝ったらタダで飲ませてもらう約束をしていたところがあって、帰国してからプリンスホテルで協会の祝勝会をした後、東京に泊まることになった小城得達(おぎ・ありたつ)や杉山隆一たちと、今夜はタダだからとそこで大いに飲みはしたが――。

先輩の夢、会長の夢
「三つの夢があった。ワールドカップを立派に開催したい。協会の自前の建物を持ちたい。できればミュージアムをつくりたい――その三つの夢は実現しました。1993年(平成5年)のJリーグ開幕のとき、そして2002年のワールドカップの第1戦のとき、やはりノコさん(竹腰重丸)、小野(卓爾)さんたちに見せたかったなあと思った。すべて手弁当でやってこられた、あの人たちの夢でしたからね。
 夢を持つことはだれでもできる。その夢を実現させることが大切です。それが実現できた端緒はすべて、あの先輩たちからでした。協会の建物は当時、お茶の水の岸記念体育会舘のなかにあった。その汚い小さな事務所のなかで、私は先輩たちに交じって仕事をしていた。ガリ版を切り、英文タイプをぽつりぽつり打っていた時代です」と岡野俊一郎は言う。
 岸記念体育会舘は嘉納治五郎・初代大日本体育協会会長に次ぐ第2代会長で、弁護士であった岸清一の遺産によって木造の会館が建てられた。その後、お茶の水の土地を売却した基金で、東京オリンピックのときに原宿の新しい同会館が生まれたことを知る人も少なくなった。岸会長はIOC委員でもあったが、その古い建物を仕事場とした若きJFA技術委員、岡野俊一郎は、今、岸さんの流れをくむIOC委員のなかでも、古株となった。


(月刊グラン2004年5月号 No.122)

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