賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >最初のショートパス経験者 昭和5年の日本代表 校長でサッカー・コーチ 高山忠雄

最初のショートパス経験者 昭和5年の日本代表 校長でサッカー・コーチ 高山忠雄

 “サッカー校長”といえば、今なら平山相太(筑波大)を送り出した、長崎県立国見高校の小嶺忠敏先生がまず頭に浮かぶ。同じ長崎県の島原商業高校監督としての実績に続き、国見高校のサッカーを教え子たちとともに手作りで育て、高校サッカー界第1級の学校クラブに仕上げただけでなく、九州でのサッカー発展の原点となったことは、誠に素晴らしい。この連載にも、いずれ登場していただきたいのだが、今回は小嶺さんよりも半世紀前に校長であって、グラウンドでサッカーの指導を続けた高山忠雄先生の話――。
 高山忠雄は、この連載の最初に紹介した(2000年5〜7月号)昭利の大先達、竹腰重丸――通称ノコさんと同世代で、1930(昭和5)年の極東大会の日本代表であり、大正末期から昭和初期の東大の黄金期(関東大学リーグ6連覇)をつくった一人でもある。


御影師範付属、神戸一中、八高、東大

 大分県臼杵に生まれた(06年=明治39年)ノコさんは、旧制大連一中でサッカーを覚え、山口高等学校(22年=大正11年、入学)を経て、東大(25年入学)に進み、26(昭和元年)から31年まで、関東大学リーグ6連覇の黄金期を築いた。
 高山さんは04年6月24日生まれだから、ノコさんよりも2歳年長。
 生まれは東京だが、育ったのは神戸で、御影師範付属小学校(11〜17年)でサッカーを覚え、旧制神戸一中(17〜22年)では、生田川畔の校庭でひたすらボールを追った。卒業後は名古屋の第八高等学校(現・名古屋大学)に進み、ノコさんと同様にインターハイで活躍、27年に東大に入り、31年に文学部教育学科を卒業している。
 30年の極東大会では、FWの右ウイングを務め、対フィリピン、対中華民国(現・中国)の両試合ともレギュラーとして、ゴールに絡む活躍をしている。


神戸高校の校長18年

 高山さんは卒業後、東大の学生課に勤め、1941(昭和16)年には学生主事となる。学生時代はノコさんと同じようにサッカーに熱中して、留年もあったが、卒業後は仕事に精を出した。貿易の仕事をしていた父親の影響で、英語は中学生のころから得意だったので、43年には外務省の調査官となり、中華民国の上海に駐在、大戦直後には外務事務官から文部事務官を経て、浜松工業専門学校(現・静岡大学)の教授を務め、48年10月に兵庫県立神戸高校の校長となった。65年に退職するまでの18年間、兵庫県の名門中学であった神戸一中と、女学校のナンバーワン・スクールであった県立第一高女とが合併した新しい神戸高校の運営に力を厚くしながら、サッカー部の復興にも情熱を傾け、自らプレーの模範を示して、生徒たちを指導した。
 その成果は国見高校の華々しさには及ばぬとしても、全国高校選手権に何度もチームを送り、大仁邦彌、細谷一郎といった日本代表や、国際審判で後に兵輝県サッカー協会の運営に力を発揮した長岡康規などを育てた。彼らの後輩の中には岡本純のようにJリーグ創設時に広告業界にあって、リーグをサポートするものもあった。
 戦前の神戸一中の黄金期については、この連載での“河本春男”(2001年11、12月号『チーム指導と会社経営、生涯に2度成功したサッカー人』)で紹介したが、その黄金期の伏線となる時代に生徒だった高山さんが、黄金期復活を目指して努力し、多くの優れたサッカー人、健全なスポーツマンを育成したことは、誠に素晴らしい。
 校長であり、教育者としての高山さんは、その視野の広さや先見性などについて語られることが多い。大戦中に日本に留学してきた東南アジアの子弟の世話をしたこと、61年に自ら団長となって、神戸高校サッカー部のインドネシア遠征を行ったこと……。
 そうした教育者、サッカー校長としての大きな仕事の一つ一つを数え上げていくのは楽しいが、私は高山さんの少年時代が日本サッカー史に大きくかかわっていたことに注目したい。


範多龍平、白洲次郎、西垣光温らと

 高山忠雄少年が神戸一中に入学したのは1917(大正6)年だった。13年に誕生したサッカー部(当時はア式蹴球部といっていた)は翌年、初めてチームを編成し、外国人クラブや御影師範と対戦、18年には第1回日本フートボール大会(現・高校選手権)に出場している。高山さんが入学したときの上級生には、後の慶応ソッカー部の創立者の一人、範多龍平や、戦後の政界で活躍した白洲次郎、京都で有名な料理店「十二段家」の経営者となる緒方光温(後に西垣に改姓)、小島政俊、豊田善右衛門たちがいた。足の速い高山さんは3年生からレギュラーとなり、右のウイングFWでプレーした。しかし、まだ御影師範に勝てるまでにはなっていなかった。
 最大のショックはチェコ軍人チームと試合をしたことだった。第1次大戦(14〜18年)で、ロシアの捕虜となっていたチェコの軍人がシベリア経由、アメリカを経て母国に帰る途中、神戸に立ち寄ったとき、サッカーの試合をしたいということになり、神戸一中が相手をした。もちろん年齢差、体格差は大きく、また軍人チームの技術も高かったから、19年9月22日のこの試合は0−8の大敗となった。このとき、神戸一中の選手たちは、初めて接したショートパス戦術にとまどってしまった。それまでは、神戸外人クラブや上海外人クラブとの試合などから、イングランド流のウイングからのセンタリングを中央で決めるというのが攻撃の手法と思い込んでいた少年たちには、短いパスをつないで巧みに攻め込んでくる相手は、初めての経験だった。
 神戸一中のサッカー史では、ショートパスの確立は25年の第8回日本フートボール大会。その前に、ビルマ(現・ミャンマー)人のチョー・ディンの指導を受けてから――となっているが、インステップやサイドキックなどの基礎技術を分解動作で指導し、戦術も教えた彼のカは大きいにしても、短期間でこれをチーム戦術として実際に試合で成果を挙げるには、このチェコの軍人チームとの試合で、イングランド流でなくコンチネンタル・スタイル、特にダニュービアン・スタイルといわれるチェコの短いパスをつなぐサッカーに目を見張った経験が、伏線になったといえる。
 高山さんは八高を、小島政俊は松山高等学校を経て、東大に入り、後輩の若林竹雄とともにノコさんを中心として東大のショートパス攻撃をつくり上げる。豊田善右衛門は慶応に進んで、松丸貞一らとともに慶応のショートパスの基礎を築くことになる。
 神戸一中43回卒業の私には、高山さん(23回卒)は20歳年長の先輩。40(昭和15)、41年には一中のグラウンドで直接、指導をしてもらったこともある。私が日々の練習スケジュールの中に400メートル疾走を取り入れ、“うまくて速いが、体力がない”といわれた神戸一中の評価を“体も強い”に変えたのは、高山さんのアドバイスがあったからだ。
 校長時代にも、岩谷俊夫や私に「学校に来て、後輩を教えてほしい」とよくいわれたが、私は忙しすぎる仕事を抱えて、母校を訪れる機会は少なかった。今から思えば、コーチとしてでなく記者として、歴史の宝庫の高山校長のところへ、なぜもっと足を運ばなかったのか――誠にもったいないことをした。


高山忠雄・略歴

1904(明治37)年 6月24日、東京に生まれる。
1911(明治44)年 4月、兵庫県・御影師範学校付属小学校入学。
1917(大正6)年 4月、兵庫県立第一神戸中学校入学。
1922(大正11)年 3月、同校卒業。
1927(昭利2)年 3月、第八高等学校文科卒業。
1931(昭和6)年 3月、東京帝国大学文学部教育学科卒業。
1941(昭和16)年 3月、同学生主。
1943(昭和18)年 3月、大使館調査官、上海駐在。
1946(昭和21)年 外務事務官。
1947(昭利22)年 9月、浜松工専教授。
1948(昭和23)年 兵庫県立神戸高校校長。
1965(昭和40)年 3月、退職。4月、武庫川女子大教授。
1972(昭和47)年 宝塚市教育長。
1980(昭和55)年 7月1日、東京で逝去。


★SOCCER COLUMN

チェコのサッカーと日本
 ハシェック・ヴィッセル神戸監督で身近になったチェコだが、チェコがスロバキアとともにオーストリア・ハンガリー帝国の一地域であったころから、プラハは中部ヨーロッパのサッカー拠点――。1906年(明治39年)にグラスゴー・セルティック(スコットランド)が訪れて以来、イングランド流よりも、ショートパスを重視するスコットランド・スタイルのサッカーを取り入れていた。
 協会創立は01年。06年にはFIFA(国際サッカー連盟)に加盟し、34年(昭和9年)の第2回ワールドカップではイタリアと決勝を争い、62年の第7回大会(チリ)でも準優勝している(当時はチェコスロバキア)。
 64年の東京オリンピックで日本が1次リーグを突破したとき、準々決勝の相手がチェコスロバキアだった。日本はクラーマーによって復活した日本スタイルで戦い、チェコの流腰流麗なパスワークとの攻防は見ごたえがあったが、技術の違いは大きく、0−4で敗れた。
 19年(大正8年)に神戸一中と試合をしたチェコ軍人チームというのは、第1次大戦中、ドイツ側であったチェコ軍がロシア戦線で多くの捕虜を出し、その捕虜となった人たち。その捕虜が母国への帰還にあたって、シベリア経由で日本へ、そして船でアメリカを経て故国へというルートをとったので、神戸を訪れたのだ。この経路の決定までには、ロシアでのボルシェヴィキ革命と各国の思惑が絡む、歴史の内幕ストーリーがあるのだが、とにかく神戸一中との試合が持たれ、若い中学生はイングランドではない、スコットランド流の、それもダニュービアン・スタイルに大きな刺激を受けた。
 サッカーの歴史の面白さは、こうした世界史に常に関連しているところにある。

スルーパスの伝承
 サッカーの博覧強記、田辺五兵衛さん(故人、1908〜72年)が、25年(大正14年)1月、第8回全国中学校蹴球大会(現・高校選手権)に桃山中学の5年生で出場したとき、「ショートパスを磨き上げた神戸一中のスルーパス戦法をどう防ぐかが、大問題であった。原始的なキック・アンド・ラッシュがようやく形をショートパスに変えたとき、神戸一中はさらにスルーパスによるファイナル・ラッシュを完成して、天下を風靡(ふうび)し始めていた」と述懐している。その神戸一中に1回戦で当たった桃山中は対策も及ばず、0−3で敗れている。
 田辺さんによると「神戸一中のやり方は、この年度でほぽ完成されていた。その伝統がこれ以降の神戸一中の強さとなり、技術、戦術史の上で大きな影響を及ぽす」とある。チョー・ディンの技術指導からすぐさま、中学生が当時として最も進んだスルーパスに入っていった陰には、単に本で読み、話で聞くだけでなく、中部ヨーロッパのショートパスの本流ともいうべきチェコのサッカーに接した19年の記憶が伝承されたといえる。


(月刊グラン2004年6月号 No.123)

↑ このページの先頭に戻る