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“走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰

「オシム監督の走るサッカー」――ジェフユナイテッド市原にこんな形容がついたとき、古いサッカー人は“日立の走るサッカー”を頭の中でダブらせたに違いない。
 その“走る日立”で日本中を驚かせ、覚醒(かくせい)させた監督が高橋英辰――。ロクさんの愛称で呼ばれた彼は、愛知県の旧制刈谷中学(現・刈谷高校)出身で、大戦前の早大黄金期のプレーを経験し、日立製作所(現・柏レイソル)のサッカー部を起こし、指導者となって早大監督、日本代表監督、日立本社監督として実績を上げ、70歳を超えて、なおグラウンドに足を運び、現場のコーチとして一生を貫いた人である。


刈中時代から親譲りの練習の虫

 ロクさんがサッカーを始めたのは、亀城小学校4年生のこと。父親の刈谷中学第4代校長、高橋英治さんが、自らも生徒とともにボールを蹴っていたほどだから、その息子、英辰がボールになじむのは、ごく自然だった。
 刈谷中学に入学してサッカー部に入り、やがてレギュラーになる。
 ただし、刈中はこのころ、まだ全国のトップというわけにはいかなかった。東海地区予選で愛知第一師範や岐阜師範に抑えられて、全国中等学校選手権(現・高校選手権)への道は、ずいぶん険しかったからだ。
 残念だったのは、1932年(昭和7年)の東海地区予選決勝で愛知一師と延長戦を2度行って、2−3で敗れたこと。延長に入る前に、相手の反則でPKをもらったが、5年生のキャプテンが蹴って失敗してしまった。当時4年生だった練習熱心なロクさんは、PKの練習などもしていたが、ほかのメンバーはそういう習慣がなかった。
「キャプテンが蹴って失敗したが、PKをロクさんが蹴っていれば全国大会に出ていたかもしれない」と同期の鎌田(寺田)林平さん(刈中11回卒業)は刈谷高校サッカー部70年史『赤ダスキの歩み』に書いている。
 34年、早稲田高等学院に入学。早大の予科にあたる高等学院(通称・早高)は、旧制インターハイに出場できる唯一の私立大学の予科だった。


早大では“谷間”日立で名リンクマン

 1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックには、当時の日本で最も強かった早大を中心に日本代表をつくった。優勝候補といわれたスウェーデンに逆転勝ちして、サッカー界は大いに沸き立ったが、そのベルリン組が卒業したあとの早大を引き受けるロクさんたちは“谷間の世代”となって、慶応大に抑えられてしまう。
 二宮、播磨、小畑たち、ロクさんと同世代の慶応メンバーは、予科のころからレギュラーとなり、早大の川本、加茂兄弟、堀江たちの年長組との戦いでカをつけていたのだった。このためロクさんにとっての早稲田でのサッカーはタイトルに縁遠いものだったが、それでも、ベルリン世代とともに練習することで、戦前の日本サッカーの最盛期の質の高さを身につけることができた。
 FWであったロクさんはシュートの名人といわれた川本泰三から、相手のマークをはずすための“消える”動きをアドバイスされ、日本代表の合宿では右近徳太郎のフックとスライスのパスを受けることができた。
 41年に早大を出て、日立製作所に入社し、日立茨城工場のチームを強化して、明治神宮大会に出場した。以来、日立のサッカーの顔となり、主となって、今の柏レイソルヘの基礎を築いた。
 大戦の空白から立ち直ろうとする日本サッカーでは、早稲田WMWという当時の最高チームのメンバーとして活躍した。
 ロクさんはこの少しあと、自分がつくり上げた日立のチームで、その本領を発揮する。全体の流れを読み、仲間への気配りの細やかなロクさんは、最も優れたリンクマンとして、守りと攻めをつなぎ合わせ、チームを一つにまとめ上げる才能を伸ばした。
 足は早いとはいえないが、巧みな位置取りと正確なパスは、早大や慶応の後輩たちを自在に動かし、その特色を発揮させた。
 それはのちに、この人のコーチの仕事につながるものであったかもしれない。


早大の百姓一揆 ゴールへの強さ

 コーチとしての手腕は、まず母校の早大の監督になって発揮される。1955年(昭和30年)に就任し、それまで3年間遠ぎかっていた関東大学リーグに優勝、次の年にも連緯優勝した。
“百姓一揆”と自他ともに認めるゴール前へのロビングボール(高いタマ)にFWが突進する攻撃は、“技巧うんぬん”の前に、まずゴールヘ向かう強い姿勢、競り合いをいとわぬ強い心を持つことを主眼としたもの。いわばフットボールの原点に返っての戦いぶりだった。
 個人的にもメルボルン・オリンピック代表の八重樫茂生や、新人でカのある川淵三郎(現・JFAキャプテン)などがいて、彼らの力を伸ばすこともロクさんの仕事であった。
 早大の監督の次には、日本代表のコーチのポジションが待っていた。JFAの技術委員となり、59年には第1回アジアユース大会の日本代表監督となった。日本のチーム競技で、初めて高校選抜チームを海外の大会へ送り出すのには、前年まで日立でプレーを続け、体力も気力も経験もあるロクさんが最適と誰もが思ったのだろう。
 宮本輝紀や杉山隆一たち、東京、メキシコ両オリンピックの攻撃の軸となる2人がこのチームにいたのは、ロクさんにも、彼らにも幸いだった。ここしばらく、オリンピック予選で韓国に負け続け、第3回アジア大会(東京)でも1次リーグ2戦2敗の日本サッカーが、ユースであっても3位入質の好成績を挙げたクアラルンプール(マレーシア)での大会は、再生の第一歩となった。


日本代表の強化 クラマーとともに

 ローマ・オリンピック(1960年=昭和35年)の予選にも敗れた日本は、東京オリンピックを目指して大強化策をとる。一つがヨーロッパヘの長期遠征。その日本代表の監督を44歳のロクさんが引き受けることになる。
 このとき、西ドイツ(当時)のデュイスブルクのスポーツシューレで、ロクさんや選手たちが出会ったのがデットマール・クラマー。この類(たぐい)まれなコーチとともに、高橋監督は2年間、日本代表の成長にカを尽くす。
 日本人の勤勉さ、機敏さを生かすのが代表チームの活路。そのためには、基礎のテクニックを高めるのが先決――というクラマーの理論はまことに正しいが、その効果はなかなか表れない。ロクさんはいわば、その谷間の期間を辛抱強く耐えた。やがて徐々に効果が表れだした62年の暮れ、JFAは長沼健監督、岡野俊一郎コーチという代表チーム首脳の若返りを図った。
 16年生まれのロクさんよりも、一回り以上若いリーダーを持ってくることで、チームに勢いをつけようという策だった。
 代表監督の重責を解かれたロクさんは、しばらくサッカーから離れた。「ゴルフのクラブも買ったよ」といっていたのもこのころだが、サッカー界はこの人の経験と豊かな知識をほってはおかない。
 69年3月、自らつくった日立の監督に戻ることになる。65年から始まった日本サッカーリーグで、実業団の老舗(しにせ)であったはずの日立が低迷していた。会社の首脳は、自分たちが最も信頼するロクさんに白羽の矢を立てた。
 53歳の監督の再建への取り組みが始まった。チームの状態をつぶさに眺め、把握したロクさんはやがて、一つの方針を打ち出した。「走る日立」であった。


高橋英辰・略歴

1916年(大正5年) 4月11日生まれる。
1929年(昭和4年) 4月、愛知県立刈谷中学に入学。
1934年(昭和9年) 3月、刈谷中学卒業。4月、早稲田高等学院(略称・早高)入学。
1935年(昭和10年) 第2回東京大学予科大会で早高が優勝。
1936年(昭和11年) 1月、第13回全国高校大会(旧制インターハイ)で早高は3回戦で敗退。
             秋の関東大学リーグの第1戦、対東京商大戦はベルリン・オリンピック代表メンバーが不在で、留守番チームで戦い4−3で惜敗、FWに高橋の名あり。
1938年(昭和13年) 6月、第18回日本選手権(現・天皇杯)で早大が10年ぶり2度目の優勝。
1941年(昭和16年) 3月、早大を卒業。4月、日立製作所に入社。秋の神宮大会、実業団の部で準優勝。
1955年(昭和30年) 早大ア式蹴球部監督に就任、秋の関東大学リーグで4年ぶり11回目の優勝。
1956年(昭和31年) 関東大学リーグ優勝、東西学生王座決定戦も優勝。大学選手権は準優勝。
1957年(昭和32年) 日本代表コーチに就任。
1959年(昭和34年) 4月、第1回アジアユース大会日本代表監督。
1960年(昭和35年) 8月、日本代表監督に就任(62年9月まで)。
1969年(昭和44年) 3月、日立本社サッカーチーム監督に。


★SOCCER COLUMN

サンのサンでロク
 1929年(昭和4年)に英辰少年が刈谷中学に入学したときの校長が、父親の高橋英治さん。
 英治校長の頭がよく光っているところからサン(SUN)で、太陽――英辰くんは、その息子だからサン(SON)。つまり、サンのサンだから、これを数字にすると3の3、合わせてロク(6)ということになった。学生らしく、いささかもってまわったニックネームだが、語呂もよく、先輩たちは“ロク”、後輩たちは“ロクさん”と呼び、本人も結構、気に入っていて、晩年に会社をつくったときも「ロク企画」と名づけていた。

幻の東京オリンピック世代
 ロクさんは1916年(大正5年)生まれだから、ベルリン・オリンピック(36年=昭和11年)で活躍した世代とは3、4歳若く、二宮洋一(17年生まれ)たちの、いわゆる幻の東京オリンピック(40年)があれば、活躍した年代である。
 戦前のいわば日本サッカーの黄金期に大学生であった、このころのプレーヤーは平均して十分に練習し、自ら工夫し、技を磨いていた。しかし、海外との交流が断たれていたこのころ、ヨーロッパ勢との試合は38年に来日したイズリントン・コリンシアン戦が唯一の機会であった。彼らの多くは卒業すると軍務に服し、大戦終結までサッカーはブランクとなった。
 ロクさんは軍務に就くことはなかったが、大学卒業後すぐ、いわばプレーヤーとして最も脂の乗った時期に、さらに腕を磨くチャンスを失った。
 ロクさんがコーチを長く続け、時間を割いては世界を歩いて世界中のサッカーを見聞したのは、日本サッカーのためという大目的とともに、戦争のために自らのサッカー人生の重要な部分を失ったフラストレーションがあったからではないか――。
 年をとっても摂生し、コンディションの維持に努めたロクさんは、恵まれた時代に育った後輩たちの無言の師となっている。


(月刊グラン2004年7月号 No.124)

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