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“走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)

会社首脳に復活を託され――

 1969年(昭和44年)3月、高橋英辰(ひでとき)=通称ロクさん=は、日立本社のサッカー部監督となった。
 40年創部の歴史あるサッカー部の不振を放っておくわけにはいかない――という声が会社のなかでもあったが、伝え聞くところでは、系列会社の日産自動車が日立本社がサッカーにカを入れる気がないのなら、肩代わりをさせてほしい――という打診があって、あらためて会社首脳がサッカーヘのてこ入れを考えたとか。
 入社以来、サッカー部にかかわり、そこから、日本サッカー協会(JFA)の強化の仕事に転出し、そのあとしばらく、サッカーから離れたかたちになっていたロクさんに、会社首脳が復帰を要請したのだった。
 あふれるほどの知識を身につけた52歳の監督が、日立というJSLのクラブの再建に向かって掲げた指針が「走る」という、最も簡明な言葉だった。
「これまでの日立は60分走るのが精いっぱいだった。90分走り続ける体力がまず必要」


ナイター練習、独身者合宿所

 東京・丸の内にある日立本社に勤務している“社員選手”たちは、近くに自分たちの練習場がない。それではと、代々木の第2体育館で2月初めから毎週4日、仕事の終わった午後6時半から2時間の自主トレを始めた。自主トレといっても、ロクさんがずっと目を光らせているから、だれも手抜きはできない。
 4月6日から6月6日までの前期(8チームだから7試合)が終わると、7、8月は日産厚生園のグラウンドで長期合宿した。もちろん、昼間は会社へ出勤するので、照明下で夜に練習した。帰宅に時間をかけなくていいので練習に集中し、また生活をともにすることでチームワークもよくなった。
 厳しいトレーニングをするためには、それだけの環境が必要だと、ロクさんは会社の上層部に話して、グラウンドにナイター設備を付け、また、秋のシーズンインにはグラウンド近くに民家を一軒借りて、独身選手を合宿生活させたのだった。
 こうした配慮と“走る”重視の練習は、就任2年目のリーグで3位(6勝4分け4敗、得点21、失点16)となって表れ、4年目の1972年(昭和47年)にはついにリーグ優勝(9勝3分け2敗、得点36、失点16)という最高の結果となる。


技術もパスワークも、そして体力も

「日本人の勤勉さと敏捷性を生かすことが、代表チームのカラーとなる。ただし、そのためには、今はあまりにも個人技術が低い。もっと正確にボールを扱うことが大切だ」
 1960年(昭和35年)に来日し、東京オリンピックまでに日本代表を強くする責任を負ったデットマール・クラマーはこういう方針を立て、代表チームの一人一人に正確な基本技術を要求し、練習させた。杉山隆一や宮本輝紀が成長し、小城得達(おぎ・ありたつ)、釜本邦茂、山口芳忠といった若い力が伸びて、64年の東京オリンピックを迎え、それらが主力となって68年のメキシコ・オリンピックでの成功を見た。
 ただし、この一握りの代表の強化とは別に、手を打っていたはずの次世代のレベルアップは予想ほどには進んでいなかった。そんなことから、若手育成にもさまぎまな意見が出されていた。
 JSLではボールテクニックと個人技のレベルアップを掲げるヤンマー、スピード派の三菱、組織力の東洋工業がそれぞれの特色を発揮していた。
 世界のサッカーを見聞し、“今”だけでなく、古い時代の例も知る、いわば古今東西に通じたロクさんは、そうした日本の空気のなかで「ボールを止める技術、蹴る技術も、外国のトップに比べるとまだまだ。体格もスピードもこちらが上とはいえない。そして、走力もチームワークも劣っている。トップの選手には、どれかというよりすべてが大切だ。しかし、日本の今のサッカーはあまりにも走っていない。組繊的なプレーをするにも、高い技術を試合で発揮するにも、まず走るカがなくてはならない」と考えた。
 このロクさんの考え方が浸透し、日立の試合ぶり――攻められれば厚い守りとなり、ボールを奪えば、後方からわき上がるように次々と走り出す――は、各チームを驚かせ、スタンドの共感を呼んだ。
 チームの中心となった野村六彦は40年2月10日生まれだから、ロクさんが就任したとき29歳、広島の舟入高から中央大に進み、学生王座を獲得し、目立では1年目のJSL得点王にもなっていた。1メートル65センチ、小柄なベテランを鍛え上げ、よみがえらせたことも成功の一つとなった。2年目からコーチに胡崇人(えびす たかと)をおいて、体力トレーニングにあたらせたのも、ロクさんらしいところ。だれも好きになれない“しんどい”練習を倦(う)ませないために、選手たちの兄貴分ともいえる彼に責任を持たせたのだった。
「より速く、より正確なプレーを」――走ることを基本に、ロクさんの要求はどんどん高くなっていったが、それは必ずしも望み通りにはいかなかった。アマチュアの社員選手としての眼界もあったし、素材の問題もあった。しかし、自らのサッカー勉強のなかで、当時の日本で不足していた最も大きな原点を見直す契機をつくったことで、日立でのロクさんの功績は、今のプロ時代にもつながっている。


おとぼけロクの観戦記

 1977年(昭和52年)、日立を定年退職したロクさんは監督を退き、ゼネラルマネジャーとなり、やがてJSLの総務主事を務める。そのころロクさんに会うと、口にするのはリーグの独立と各チームのレベルアップのための、コーチ研修の必要性だった。森健児や木之本興三といったスタッフがいて、リーグ運営や資金繰りの面では心配なかったから、もっぱら現場のコーチのレベルアップに心を砕いている様子だった。
 自分自身もサッカーを考え、見聞することを欠かさなかった。70年のメキシコ大会からワールドカップは74、78、82、86年と見続けた。旅費は自分持ちで、「月刊イレブン」に寄稿する約束で同誌の特派員という形で出かけたこともあった。私にとっては、大会の会場でロクさんに会えるのは、大きな楽しみだった。「イレブン」への寄稿は、自らを“おとぼけロク”と称するユニークで、どこか“ひょうひょう”とした文章で人気になった。
 もともと書くことは上手だった。68年のJFA機関誌に掲載された『アーセナル戦に寄せて』は、アーセナルと日本代表の戦いを取り上げ、イングランド流の“ゴールヘのひたむきなサッカー”を見事に描いたもの。
 ワールドカップだけでなく、南米選手権や欧州選手権にも出かけた。
 監督を長く務め、戦術にも意を用いた人だが、その戦術論の特色は4・2・4や4・4・2あるいは3・5・2といったシステムは単なる配列でなく、だれがそのチームでどういう役を務めたかに及ぶことだった。残念ながら、「イレブン」は廃刊になってしまったが、珠玉ともいうべきロクさんの書き物を、なにかの機会に復刻したいと願っているのは、私だけではあるまい。


高橋英辰・略歴

1969年(昭和44年) 3月、日立本社サッカー部監督に。
             同年の第5回日本サッカーリーグ(JSL)では、前年と同じ7位(8チーム中)。
1970年(昭和45年) 第6回JSLで東洋工業、三菱に次いで3位。
1971年(昭和46年) 第7回JSLで4位(1位・ヤンマー、2位・三菱、3位・新日鐵)。
1972年(昭和47年) 第8回JSLで初優勝。
          73年元日の天皇杯決勝でヤンマーを破り、第52回天皇杯優勝。2冠を制した。
1973年(昭和48年) 10チーム体制となった第9回JSLで2位。
1974年(昭和49年) 第10回JSLで3位だったが、天皇杯は準決勝で、ヤンマー(リーグ優勝)を破り、75年元日の天皇杯決勝でフジタを退けて、第5回大会の覇者となった(2回目)。
1975年(昭和50年) 第11回JSLで3位。
1977年(昭和52年) 日立を定年退職、サッカー部監督を退き、ゼネラルマネジャーになる(78年まで)。
1979年(昭和54年) JSL総務主事となり、85年までの7年間、指導者のレベルアップ、リーグの活性化に取り組む。
1986年(昭和61年) 総務主事を退いたあと、メキシコ・ワールドカップを取材。
1987年(昭和62年) 日貿出版社から『神様はサッカー特派員』を出版。
2000年(平成12年) 2月5日没。戒名「寿巌院球琳英道居士」。


★SOCCER COLUMN

裸形のポスターに話題騒然
 20年前、1984年(昭和59年)のJSLのポスターは、多くの人を驚かせた。左足を白黒ボールの上に乗せて立つ裸形の釜本邦茂を背後から撮影したものを中央に、右に「格闘技宣言。」の文字を置き、左に「1984 JAPAN SOCCER LEAGUE」といずれも縦書きにした。
 65年に始まったJSLが、60年代の上昇ムードのあと、70年代後半には停滞期に入り、観客動員数も68年は1試合平均7491人であったのが、77年には2000人を割るまでに落ち込んでいた。
 代表チームの国際試合での不振も、その大きな原因の一つだったが、その代表に選手を送り込むJSLでは、84年にリーグ20周年を迎える記念行事の一つとして、まず斬新なポスターのデザインを提案した。
 リーグ内でも賛否両論あったが、木之本興三や森健児たち、若い推進力を生かそうと、総務主事だったロクさんが反対論を押さえたのだ。1500万円をかけた博報堂製作のこのポスターは、発表されると大きな反響を呼び「日本広告制作会社連盟」の「日本広告キャンペーン秀作貰」を受賞した。
 人気を回復するための努力の象徴であるとともに、「このポスターはアマチュアからプロを指向するエポックメーキングなものであった」(川淵三郎・第7代総務主事、現JFAキャプテン)ともいえる。

オシム監督と高橋監督
「走るサッカー」ジェフ市原のオシム監督(IVICA=OSIM)は1941年5月6日生まれ。2003年の監督就任時は61歳だった。オシムは64年の東京オリンピックのユーゴスラビア(当時)代表選手でCFを務めたから、ロクさんはひょっとすると彼の試合を観戦したかもしれない。
 長身のオシムはヘディングが強く、またフットワークもよい技巧派で、66年の欧州選手権ではゲームメークの上手なプレーヤーとして評判になっていた。ギリシャやオーストリアで監督を務めたあと、ジェフにやってきた。
 ロクさんはオシムに比べて小柄だが、ボールテクニックの上手な選手で、日立ではリンクマンとして活躍した。試合の流れを読み、巧みなパスで攻撃展開のリーダーだった。
 監督、コーチとして長いキャリアを持ち、また選手時代は技巧派であった2人のベテラン監督が、それぞれ時代は変わっても、日立、ジェフといった、やや地味なチームを引き受け、まず“走る”ことを標傍したのは偶然なのだろうか。


(月刊グラン2004年8月号 No.125)

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