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日本の隅々まで足を伸ばし サッカーを教えたブラジル人 セルジオ越後(上)


 セルジオ越後というブラジル人、日系2世のテレビ解説をお聞きになったことがありますか。変な――というべきか、独特の――というべきか、特長のあるトーンと時々入る警句がとても面白い。
 サッカー批評家としてテレビやラジオで、自由に発言を楽しみ、日本人記者やちょっとした作家も顔負けの多数の書物を出版し、新聞や雑誌のコラムを受け持つセルジオは、口やペンでの活動だけでなく、少年少女を直接コーチし、全国を巡回して歩いた「さわやかサッカー教室」(現アクエリアスサッカークリニック)の主(あるじ)でもある。1978年(昭和53年)から今至るまで、延ベ1000回以上、その教室に参加した少年少女たちは50万人という驚くべき数字が積み重ねられている。
 日本サッカー協会(JFA)の中枢にあって、組織を運営し、日本サッカーの舵取りとして今日の発展に結びつけた人たちとは別の立場から、今の日本サッカーのかたちをつくるカとなった一人、それも大きなカとなった一人がセルジオ越後である。
 日本とは地球の反対側にあるブラジルに生まれ、プロサッカー選手となり、27歳で来日して、日本の企業チームでプレーし、コーチとなり、巡回指導で日本全国に影響を及ぼし、今またメディアの世界でも異色の存在となったこの人の59年を眺めてみたい。


草サッカーからコリンチャンスヘ

 セルジオ越後は日本でいえば終戦の日の半月ばかり前、1945年(昭和20年)7月28日生まれだから、今年59歳になる。釜本邦茂(現JFA副会長、メキシコ・オリンピック銅メダル、得点王)より1歳若く、ネルソン吉村大志郎(故人、ヤンマー、日本代表)より2歳年長。
 父・越後憙顕(よしあき)さんは兵庫県出身、サンパウロ市の銀行に勤めていた。ブラジルの子供の例に漏れず、小学生のころはビー玉、タコ揚げ、コマ回し、そしてサッカーに夢中になった。13歳のとき、あの58年のワールドカップでのブラジルの優勝があった。ラジオに熱狂し(テレビのない時代だったので)、花火が上がり、国中挙げて優勝を喜び、サッカーは少年たちの一番のスポーツ上なる。
 子供たちの草サッカーで、やがてセルジオは頭角を現し、子供たちのなかで“有名人”になり、大人も目をつけた。
 コリンチャンスのユースにいたころ、夏休みにサントスヘ子供たち仲間で遊びに行ったとき、顔見知りのサンパウロの少年チームが試合に来ていた。一緒にやらないかと誘われ、帰りのバスに乗せてくれるならという条件で試合に出た。
 そのグラウンドがサントスFCの裏にあり、サシトスFCの2軍のコーチが見ていて、試合の後で「サントスヘ来ないか」と言う。ベレのいるサントスがセルジオに目をつけたことで、コリンチャンスの方も注目し、彼を1軍に引き上げた。
 このとき、セルジオは「この世界は自分に技術があるだけでなく、自分からアピールしないといけない」ということに気がつく。そしてまた、このブラジルでの少年期からコリンチャンス・ユースにかけての経験で、サッカーのような遊びは先輩から後輩へ、年長者から年少者へ伝わっていくものだということ、年が上の人と一緒にプレーすることで、さまぎまな技を身につけることができる――ということを知る。
 そして、これが後に彼がコーチをするときに、子供たちと一緒に遊ぶかたちのなかで、子供たちに興味を持たせ、技術を身につけさせる彼の指導法のもととなる。


藤和不動産、日本サッカーリーグ

 サンパウロの超人気チーム、コリンチャンスの同世代にはリベリーノがいた。そうしたプロの世界でプレーしながら、日本からの要請にも心が動いた。
 企業チームによる全国リーグ「日本サッカーリーグ」(JSL)は1964年(昭和39年)の東京オリンピックの翌年にスタートし、68年のメキシコ・オリンピックでの銅メダルなどもあって人気が高まり、参入するチームも増えた。その一つに藤和不動産(現・湘南ベルマーレ)があった。広島出身の藤田一族の経営するこの建設会社は、東洋工業(現・サンフレッチェ広島) の選手、監督として活躍した下村幸男や石井義信を迎えて強化し、72年にはJSL1部に昇格した。
 その藤和が実力アップの補強策として、日系ブラジル人でプロのキャリアを持つセルジオ越後を迎えたのだった。
 ブラジルからのプレーヤーの移入は、67年にヤンマー(現セレッソ大阪)がネルソン吉村を加え、以後、ジョージ小林、黒人のカルロス・エステベスが入って、ヤンマーの黄金期を釜本邦茂とともにつくった。
 そうして、これまでのブラジル人のなかで、最も実績のあるプロとしてセルジオ越後は注目され、また、期待どおりの技術を見せる。長く正確なパス、多彩なフェイント、何気なく見えるボールタッチの正確さ――その一つ一つがファンには魅力であり、日本の個人技術向上を願うコーチ陣にとっては、注目し、解析すべき技の一つだった。


タイミンクをずらせたシュート

 抜群のシュートカを持ちながら、チームではゲームの組み立てやパスの出し手という役柄が多かったから、一般のファンには“釜本”ほど名は通らなかったが、緩急を心得たボールの動かし方は、私には大きな魅力だった。1974年(昭和49年)のJSL第4節で藤和が2−1でヤンマーを破った試合を長居で見た。私は彼がエリア外からのシュートを半呼吸タイミングをずらしてゴール右上隅へ決めたとき、メモに“ベルリン・オリンピック時代のシュートの名人、川本泰三以来、タイミングをずらして蹴る日本人(実際はブラジル人だが)を見た”と記している。
 3シーズンで40試合に出場、6ゴール5アシストの記録を残して藤和を去り、新しくJSLに加わった永大産業のコーチとなる。藤和が栃木県那須に当時としては立派な練習場を持ったのと同様、山口県平生町に練習設備を整え、選手育成に力を入れた会社の姿勢に共感したからだった。彼の指導力を見た会社は、サッカー活動の一つとしてセルジオによるサッカースクールも始めた。
 残念なことに新しいサッカー王国へと踏み出した永大のチーム関係者の願いは、会社の業績不振による廃部によって断たれてしまう。
 日本でプレーし、コーチとなり、これからというときに仕事を失ったセルジオは、ブラジルヘの帰国を考えたが、“一緒に遊びながらサッカーを伝える”という彼の考えに共鳴する会社が現れた。FIFA(国際サッカー連盟)のスポンサーにもなっているコカ・コーラのグループだった。


セルジオ越後・略歴

1945年(昭和20年) 7月28日、ブラジル・サンパウロ市で生まれる。
1955年(昭和30年) 12月、アルマンド・アラウージ小学校卒業。
1960年(昭和35年) 12月、アントニオ・フィルミー・デ・プロエンサ中学校卒業。
1964年(昭和39年) プロエンサ高校在学中にコリンチャンス(Corinthians)に入り、プロとして契約(69年まで)。
1965年(昭和40年) 12月、プロエンサ高校卒業。
1972年(昭和47年) 藤和不動産に入り、日本サッカーリーグでプレー。
             74年まで3シーズン、40試合6得点5アシスト。
1975年(昭和50年) 4月、永大産業サッカー部コーチとなる。
1977年(昭和52年) 3月、永大が会社の業績不振のため、サッカー部を廃部。
1978年(昭和53年) 「さわやかサッカー教室」をスタート。
             日本サッカー協会公認の全国巡回教室として、97年まで毎年開催。延ベ986回、41万3594人が参加。
1998年(平成10年) 名称を「アクエリアスサッカークリニック」と変え、2002年まで、合計88回、2万8798人が参加。


★SOCCER COLUMN

さわやかサッカー教室
「さわやかサッカー教室」は1978年(昭和53年)4月15日に始まった。コカ・コーラ社がバックアップし、日本サッカー協会公認のこの教室は、土、日曜日開催が原則だが、セルジオたちはそれまでの永大産業時代からのサッカー教室の関係もあり、同教室で巡回する際に独自にその地域での講習会(教室)も行なったから、その回数は驚くべきものになった。
 78年4月15日から8月1日までの4ヶ月間、つまり、最初のさわやか教室のスケジュールと独自開催の日程を見ると以下のとおりとなる。

<4月> 15日・横浜市/16日・海老名市/17日・横須賀市/18日・戸塚市/19、20、21日・静岡市/22、23日・清水市/24、25、26日・静岡市/29、30日・秋田市

<5月> 2、3日・盛岡市/6、7日・青森県・五戸小学校/13、14日・鹿島市/15、16日・長崎市/20、21日・福岡市/27日・仙台市/28日・名取市/30日・いわき市

<6月> 3、4日・山形市/10、11日・名古屋市/12、13日・岐阜市/17、18日・四日市市/24日・須坂市/25日・長野市/27、28日・甲府市/30日・大町市

<7月> 1、2日・松本市/8、9日・浦和市/10日・ときわ中学/11、12日・浦和市/14日・高崎市/15、16日・藤岡高校/22日・茨城県・東海高校/23日・茨城県東海村/24日・矢板市/25日・宇都宮市/26日・千葉市/27日・船橋市/29日・市原市/30日・館山市/31日・市川市

<8月> 1日・松戸市

 横浜から始まり、静岡や秋田、岩手、青森そして佐賀、長崎、福岡、さらに反転して宮城、福島、山形、そして愛知、岐阜、三重、長野、山梨、埼玉、群馬、茨城、栃木、千葉の各県を回っている。初年度は11月まで続いていて、「さわやか教室」だけで合計73回、参加は3万6769人となった。
 スタートの大成功に力を得て、教室は4分の1世紀にわたって続くことになる。そして2002年(平成14年)の日韓ワールドカップまでの総合計は1074回、参加は44万2392人という膨大なものになった。


(月刊グラン2004年9月号 No.126)

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