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94年米国大会の象徴――暑熱のPK戦。来日ドゥンガたちにレベルの高さを再認識

広大な大陸、長い移動

『94年の米国大会の決勝はとても暑い日だった』
 病院のレストランでコーヒーを飲みながら思う。2002年7月3日、横浜での決勝からまだ60時間後だが、私はそけいヘルニアの手術の打ち合わせに芦屋市民病院に来ていた。2年前にも経験している手術だから、特に心配することはなかった。
 それよりも、退院したらワールドカップ見聞録を出版しようというKさんの話が気になっていた。そんな潜在意識が、ブラジルが4度目の優勝を遂げた8年前の記憶を呼び起こしたのかもしれない。
 米国といえば、1974年の西ドイツ・ワールドカップを取材したとき、帰途に米国に寄ったら、ニューヨークの空港にも、町にもワールドカップの影はなく、大西洋を越えればまったく別の世界と感じたものだ。それが20年後にはワールドカップを開催し、史上最高の観客数を動員するまでに変化するのだから…。
 この大会で、私はこの国の広さを実感した。7月3日には、無謀にもボストンからダラスまで日帰りで往復した。
 アメリカン・フットボールのコットン・ボウル競技場で、正午キックオフ。暑熱の試合にサウジアラビアがスウェーデンよりも元気がなくて1−3で完敗したが、私自身も片道5時間×2の飛行に、翌日はぐったりしてしまった。


ドゥンガが決め、バッジォが外す

 7月17日、カリフォルニア州パサデナ市ローズ・ボウルでの決勝。ブラジル対イタリアは、70年メキシコ大会以来の顔合わせ。70年大会はペレを中心とする攻撃力が爆発して4−1の快勝となった。
 24年後はどちらにもチャンスがあり、ブラジルはその数で勝ったが結局はノーゴール。PK戦で決まった。記者席から見て右側のゴールでイタリアが先行。バレージがバーを越し、マルシオ・サントスがGKパリュウカに止められ、そのあと二人ずつが決めて、4人目のマッサーロをタファレルが防いだ。ドゥンガが決めて3−2。5人目のバッジォはバーを越してしまった。
 デスクのないプレス席をあてがわれ、私たち日本人記者の多くは、すぐ前の一般客が興奮すると立ち上がるので、いくつかのチャンスを見逃してしまった。PK戦は初めからイスの上に立って見届けたから、決勝はPK戦の記憶が強く、ブラジルの攻撃についての印象は薄い。
 ただし、ブラジル優勝メンバーから主将のドゥンガ(磐田)をはじめ、レオナルドやジョルジーニョ(ともに鹿島)、セザール・サンパイオ、ジーニョ(ともに横浜F)がJリーグに参加して、あらためて彼らのレベルの高さを知ることになった。

(週刊サッカーマガジン2004年11月9日号)

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