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長沼健さんの叙勲を祝う会で――。第1回W杯の年に生まれ、サッカーー筋74年

 長沼健さんの叙勲をお祝いしようとプレスの仲間が集まった。
 10月25日午後、東京・竹芝の『銀座アスター』という中華レストランで30人ばかりの内輪の会だった。
 共同通信の小山敏昭、スタジオアウパの今井恭司、前ニッポン放送の小林達彦、そして前テレビ東京の金子勝彦といった古株が発起人となって、記者、カメラマン、ラジオ、テレビの人たちに呼び掛けたのだった。牛木素吉郎、大住良之、後藤健生をはじめ、健さんと長い付き合いの人が多く、参会者が一口ずつスピーチし、健さんがお礼を言うという、まず普通の形式ながら、和やかで心のこもった会となった。


ワールドカップと日韓友好

 秋の叙勲の季節だからと、新聞社にいたころは、こういうことにも気を配っていたものだが、発起人から案内をもらうまでは知らなかったのだから、迂闊(うかつ)なこと。“現役最長老記者”などと言われている上の二文字も怪しくなったなぁと思う。“勲三等旭日中授賞”と言われてもピンとこないが、どうやら政治家なら大臣経験者の頂戴するランクらしい。
 日本国民にサッカーというスポーツを浸透させ、新しい楽しみを国の隅々にまで定着させた。韓国との共催でワールドカップを開催し、ギクシャクしていた隣国とが互いに歩み寄る大きなステップを作ったと考えれば、並の大臣様より上であってもいいと思うのだが…。


38歳・銅メダル監督、66歳・苦渋の決断

 それはともかく、みんなのスピーチを聞きながら、この人とサッカーの長い付き合い――というより、サッカーそのものが人生であったこの人の生涯をあらためて思った。
 生まれたのが1930年で第1回ワールドカップ開催の年だから、健さんの年代記は、そのままサッカーのクロニクルにあてはめやすい。
 1964年の東京オリンピックは34歳の若い監督。銅メダル監督になったのは38歳、1968年である。66歳、会長のときに日韓共催の苦渋の決断があり、68歳のときに日本代表を初めてワールドカップに送り込んだ。
 ことし2004年は、東京オリンピック40周年を迎え、叙勲もあった。
 この人の生涯を辿ることは、若い記者にとってサッカーの歴史を身近に感じることになり、サッカー史そのもののこの人と接することで若い指導者にも、ものの深みが見えてくるはずだ。
 健康な健さんの10年後を想像すると、2014年は南アフリカ大会の次の第20回大会にあたる。区切りの良いことで日本の優勝があっても良いと思う。そのとき、84歳の健さんの感想を、90歳の私が記事にできるかどうかは別として。

(週刊サッカーマガジン2004年11月16日号)

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