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大戦争前の光彩(1)

昭和13年新校舎での2年生

 昭和13年(1938年)1月中旬、日本政府は中国との和平工作を打ち切ることにし、「蒋介石を相手にせず」という声明を発表した。武力侵入して“和平工作”というのも変だが、そのころまでの欧米列強の利権拡張は、まずこのスタイル。日本は蒋介石政府との話し合いを断ったことで、収拾のメドを自ら失ってしまった。
 もっとも、中学校1年生の私の関心は、国の方針ではなく、もっぱらシェパードのゲティと日本犬・リキにあった。男同士である彼らは、寝ワラの取り合いで大ゲンカになることはあっても、日ごろは仲良しで、小柄で若い日本犬と6歳で貫禄(かんろく)のついたシェパードが繰り返す情景は、見飽きることはない。
 1年5組のK君宅にも、同系のシルバー毛並みのシェパードがいることを知り、交配させた。背の毛が黒、足が茶の背黒(せぐろ)ではなく、狼に似たグレーあるいはシルバーは珍しいタイプ。彼女が産む子犬を何匹かもらうことにしていた。
 この年3月、神戸一中には、校舎移転の大事業があって、4月の新学期から灘区、上野観音山の新校舎で始まった。
 わが家からの徒歩通学の時間は、5分延びて20分に、往路はすべて登り坂。朝寝坊するとゲートル、編み上げ靴、カーキー色の制服姿で教科書の入った白いフロシキ包みを抱えて坂を駆け上がることになる。
 3階建ての新校舎の下に、約5000坪(1万6620平方メートル)の第1運動場があり、さらにその下に約1600坪(5332平方メートル)の第2運動場があった。第1で野球、サッカー、ラグビー、陸上競技の各部の練習や、朝礼、軍事教練など、第2はテニス、バレー、バスケットのコートがあり、各部が使っていた。


山津波と阪神大水害

 その2階の2年生の教室から、私は恐るべき自然の力を目にした。7月5日の阪神大水害――梅雨期の6月から続いた長雨に、7月3日、4日、5日がなお激しく、記録によると5日の降雨量は269ミリ。3日間合計は460ミリ、六甲山塊はこの水量を持ちこたえることができず、山崩れを起こし、死者933人、神戸市の70パーセントの15万戸が被害を受けた。
 この日、11時ごろだったか、校庭(第1運動場)東側の小さな谷というより溝の水量が増し、濁流となった。そして突然、10メートルも盛り上がってグラウンドと同じ高さになった。何秒か後に元の濁流に戻ったとき、無残にもグラウンドは大きく削り取られていた。その崖の際に、一棟の運動部部員室があった。この大きな建物が、足元を削られて、落ち込んだら、流れをせき止め、グラウンドへ水が入ってくるのではないか、と想像したが、20室以上あったはずの木造2階建ては、せき止めるどころか、パシャパシャパシャという感じで解体され、流され、あっという間に消えた。
 山津波――山崩れによる土石流は、町の様相を一変させた。布引の滝から流れ出る生田川を直線につけかえた新生田川は、その暗渠(あんきょ)の入り口を土と木と石とでふさがれ、水流は加納町、三宮からいまのフラワー通りを走って海へ、源平合戦のころの生田川に戻った。


神戸一中対朝鮮代表

 幸運にも、被害のまったくなかったわが家では、8月の全国中等学校蹴球選手権大会が当面のテーマだった。
 この年の神戸一中は、キャプテンが友貞健太郎、小柄・俊足の右ウィングで2年生からのレギュラー。大谷四郎主将の全国制覇チームのHBを務め、そのときの決勝で天王寺師範のウィングでゴールゲッターの卜部(うらべ)選手をマークした。師範の最上級生は、中学の5年生より2歳年長だから、5歳年長者を相手に戦ったことになる。彼を含む7人の5年生のほとんどは、小学生のころからボールを蹴り、1年生から部員、前年の全国準優勝の経験者で、これに続く4年生に兄・太郎(3年からレギュラー)をはじめ、いい素材が揃っていて、8月7日からの兵庫県予選は1回戦・対関学中学部3−0、準決勝・対県立第一商業6−0、決勝・対第一神港は11−0だった。
 南甲子園での全国大会は8月25日から29日まで、この年から予選区が増えて16となり、◇函館師範(北海道)◇東北学院(東北)◇埼玉師範(関東)◇豊島師範(東京)◇韮崎中学(山・神・静)◇富山師範(北陸)◇愛知商業(東海)◇滋賀師範(京・滋・奈)◇明星商(阪・和)◇神戸一中(兵庫)◇広島一中(中国)◇高知商(四国)◇熊本師範(九州)◇海星中学(北九州)◇台北一師(台湾)◇崇仁商業(朝鮮)が地区予選を勝ち抜いて集まってきた。
 注目は、昭和4年以来9年ぶりの朝鮮地区代表。準決勝で神戸一中と対戦すると予想されていた。


(週刊サッカーマガジン2000年6月28日号)

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