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大戦争前の光彩(2)

崇仁のCFをだれが止める

 昭和13年(1938年)の第20回全国中等学校蹴球選手権。
 8月26日の1回戦は東京の豊島師範を3−0、準々決勝は北九州の海星中を3−0で破った。右ウィングの友貞キャプテンを柱とする攻撃力は相当なものだったが、この年から採用した3フルバックの守備が効果を上げ、予選からここまで無失点を続けていた。
 一方、朝鮮地区代表の崇仁商は1回戦で函館師範を2−1、準々決勝で前年優勝の埼玉師範を2−0で倒した。準決勝の組み合わせは滋賀師範―広島一中、崇仁商―神戸一中となった。
 まだ蹴球部員ではなかった2年生の私はスタンドから観戦し、崇仁商の強さに感心した。前年のメンバーが数人いる埼玉師範に対して体力の面でもテクニックの面でも優れていた。
 特にCFが後方からボールを受け、相手バックを背にして右へ移動して放つ反転シュートは威力があった。
 27日夜、陣中見舞いに行く父について宿舎を訪ねたら河本春男部長は「CFの止め方はできている。今日は休ませた松浦がセンターハーフでマークに当たる」と言っていた。巌(いわお)の名の通り体ががっしりし、ファイト旺盛で「ガンさん」と呼ばれていた松浦は、のちに東京商大に進み、東西対抗などでも活躍するのだが、耐久力がいま一つだったから、河本先生は崇仁商との決戦に備えて準々決勝のメンバーから外していたらしい。
 炎天下の4連戦を考えて、労の多いハーフバック(守備的MF)を交代で1日おきに出場させていたのも河本流で、また、それだけメンバーも揃っていたことになる。


硬さをほぐす友貞のドリブル

 28日の南甲子園のスタンドは神戸一中のカーキ色の制服と、崇仁の応援の人たちでにぎやかだった。開始直後の神戸一中は緊張で硬くなっていた。FKで助走の後、地面を蹴る失敗もあった。右ハーフバックのケガで出場した芦田(よしだ)信夫(当時4年)は、こう振り返る。
「河本部長から、“相手は体当たりが激しいから接触プレーは避けるように。ぶつかって骨を折ったらいけない”と言われていたので、だれも当たりにいかない。
 だんだん歯がゆくなって、とうとう後方から5年生の皆木に“当たれ”と叫ぶと、彼もそれに応じてぶつかり、当り勝った。それから少しほぐれて、当りにいくようになった」
 CFだった兄・太郎(4年)の話。
「FWのだれもが相手のタックルを恐れていたが、右サイドの友貞がボールをキープし、相手DFを手招きして“コイ、コイ”と呼び、近付いてくると、見事に抜いてしまった。それからみんなの気持ちが楽になった」


オートマチックな攻守

 体とボールが動き始めるとパスが自動的につながる。前半0−0の後、神戸一中がまず先制。
 兄・太郎がCFの位置でキープ、相手のエリアより手前で、センターハーフと対しているとき、右からフルバックの内側へ友貞が走り込んできた。それに合わせてパスを流し込むと友貞がピシャリと決めた。
 2点目が続いてきた。芦田が語る。
「対応も積極的になって、相手のインナーへのパスをカットして出た。それからすぐ右前の友貞にパスを送ると、彼は縦にドリブル、そのとき賀川(兄)が右前に出て、友貞からパスを受けてゴールラインぎりぎり(エリアとラインの接点)からクロスを送ると、ファーポスト側へ皆木(忠夫)が飛び込んでヘディングした。
 そのジャンプヘッドの姿勢も、ネットへボールが突き刺さった瞬間も、62年たったいまでも鮮明に覚えている」
 簡単な経路だが、ツボに入る手順は鮮やかだった。スタンドの私は、これで勝った、と思った。
 ところが、ガンさんは相手CFのシュートを封じたが、それからの崇仁のパワー攻撃を防ぐのは、やはり大変だった。
「この年の練習は、同サイド、右のハーフバックとフルバックといったコンビによるカバーリングなどサイド別の連係プレーに時間を割いていた。サイドハーフはゴールへ戻ることが要求され、GK小畑が“ハリーバック!”と叫んでいた。FKから相手のロングボールがキーパーの上を越えた(FBは内に寄っていた)時も、僕がその“ハリーバック”でゴール右ポスト際でクリアしたこともあった」とは芦田の言。
 いまで言う、シミュレーション練習。図上だけでなく実際に繰り返し、骨を惜しまずに体で覚えたことが勝利に結び付いたといえる。
 決勝の相手、滋賀師範には5−0で勝利。
 全国大会もまた無失点(4試合13−0)だった。


(週刊サッカーマガジン2000年7月5日号)

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