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大戦争前の光彩(3)

河本春男部長の指導力

 昭和13年(1938年)夏の全国中等学校蹴球選手権(いまの全国高校選手権)で神戸一中は、5度目の優勝を果たすとともに、この学校クラブとしては初めて朝鮮地区代表と準決勝で対戦して勝った。
 大正初期の創部以来、2歳年長の師範学校に勝つための努力の積み重ねが、テクニックや戦術を習得していく練習法を生み、学校のクラブとしての伝承を持つようになった。
 そして、そのライバルであった御影師範が、姫路師範との統合などでサッカーの力が落ち始めたときに、朝鮮地区の代表という新しい課題に出会うことになった。このときの友貞主将以下のメンバーは、神戸一中の一つのスタイルであるショートパスと、強力なウィングを柱とした攻撃に加え、3フルバックの守備による相手攻撃封じなどで成功したのだが、その成功の中で、河本春男部長の力を見逃すわけにはいかない。


赴任早々の雨天練習

 明治43年(1910年)3月28日生まれ、サッカーを校技とする刈谷中学出身、東京高等師範を卒業してすぐ、昭和7年に神戸一中に赴任した河本部長が、わが家をサッカーに引きずり込んだことはすでに触れたが、サッカー部長として、部員をまとめ、多くのOBといい関係を持つ手腕や、直接に選手の技術、戦術を指導する術は大したものだ。
 赴任早々、雨の日に部員たちがルームでダベっているとき、先生はさっさと着替えて「雨の日も、試合はあるのだ」と引っ張り出し、すっかり濡れた後、熱いうどんを食べさせたという。この雨の練習がテングになりかけていた昭和7年度のチームに喝を入れ、全国優勝へ導いたのだった。このときのメンバーには、後に慶応の黄金期のキャプテンとなった播磨幸太郎をはじめ、上手な選手が揃っていて、神戸一中の“盛期”のスタート年ともなった。
 この赴任早々の優勝から、昭和13年度の7年間で全国優勝3回、準優勝1回の成績を残したが、昭和13年でも、集中豪雨による阪神大水害でグラウンドが削られると、すぐにゴールを動かして正規の広さを取れるようにし、また、炎天下の4連戦ではMFを隔日交代で出場させるなど、有効な手を打った。
 プレーヤーとしても俊足のウィングタイプ、中学から高師に入ってすぐ1軍に抜擢されて、右サイドからのクロス(ランを伴う)の練習を1日に100本繰り返し、過労から寝込んだというエピソードの持ち主だ。


63年前に神戸一中蹴球史

「ほかの学校にないもの、それは優れた先輩を生み出したことだ」と言いながら、それまで組織がなかったOB会を結成し、年に1度は招集をかけて「神中クラブの東西対抗」を催した。昭和10年(1935年)ごろ、ビッグイベントだった関東対関西の試合では、両チームの半数は神戸一中の卒業生であったから、年に一度の母校での東西対抗はOBたちにとっても楽しみとなった。
 さらにまた、昭和12年(1937年)に「神戸一中蹴球史」を編集、出版し、大正初めの創生期からの歴史をまとめたのも、河本部長の仕事。この部史によって、OBも現役の部員も、改めて歴史の流れの中にいることを自覚し、春、夏の休み、あるいは日曜に現役の練習の相手となるために母校のグラウンドへやって来る、という習慣を、多くのOBに植え付けたのだった。
 この河本部長を名指しで“もらい”に出かけたのが、校長の池田多助。自ら野球の選手であったし、テニス愛好家でもあった校長は、学校教育にスポーツは欠かせないものと信じ、サッカーに通じた教師のいないところから東京高師の主将であった河本春男に白羽の矢を立て、自ら東京へ出かけて交渉したのだった。
 このころの野球部長が山岡嘉次(あの吉田投手で甲子園3連覇を遂げた、中京商の監督)。人格者で知られたこの国語の先生が岡山に勤務していると聞き、校長が出向いて山岡部長をもらってきたという。
 校長が、これと見込んだ先生を自分で取りに行けた時代。校長の方針や個性が学校のスタイルに生かせたころだった。
 一つのクラブが、しっかりした歩みを続けるためには、さまざまな要因が組み合わされ、積み重なることになる。


(週刊サッカーマガジン2000年7月12日号)

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