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大戦争前の光彩(4)

EURO2000のトルコとデアバル

 巨大な屋根とライトのおかげで、アムステルダム・アレナのナイターは「夏でもコートが必要」の常識とは違って、むしろ暑いくらいだった。その記者席でポルトガルの巧技とトルコの粘り強い抵抗を眺めながら84年大会のデアバル監督を思い出していた。
 1978年のワールドカップで、シェーンが引退した後、西ドイツ代表を率いたデアバルは、絶頂期のルンメニゲやルベッシュ、シュスターらの若いチームで、80年の欧州選手権に優勝。82年のスペイン・ワールドカップでも、主軸の故障に苦しみながら準優勝したが、84年のフランスでの欧州選手権ではグループリーグ敗退の責任を負い、解任されてしまった。
 そのデアバルを監督に迎えたのが、ガラタサライ・クラブ、古くから反ロシア、親ドイツ傾向の強いトルコで、西ドイツサッカーのオーソリティーは、4年間でガラタサライの現代化を進め、その刺激によってトルコ・リーグも向上した。
 そして今年、彼の下でアシスタント・コーチを務めた二人のうち、テリムはガラタサライの監督として、ベンゲルのアーセナルを抑えてUEFAカップに優勝し、トルコに欧州初タイトルをもたらした。そしてもう一人のデニズリが、代表チームとともに、EURO2000でベスト8まで進出してきたのだった。
 1968年冬、釜本邦茂が西ドイツに単身留学したとき、彼を指導して開花を助けたデアバル(当時、ザールブリュッケン州協会コーチ)。彼が西ドイツ代表監督としてつかんだ栄光の後の屈辱が、今日のトルコ躍進につながっているのだから…。1980年からわずか20年の間、サッカーの流れのなかで、人の織りなすモザイクの不思議さを思わずにはいられない。
 さて、日本のサッカーの100年と、私の75年の自分史を重ね合わせる連載は、前号までで、体格は小さくても年長の師範学校に対抗して勝つようになった神戸一中が、新たな強力なライバル、朝鮮地区代表との初対戦に勝って、全国優勝した昭和13年のチームと、そのチームが生まれるまでの過程や、それに至るまでのさまざまな基盤の組み合わせ――そのなかでは優秀な部長と、その部長獲得のために、自ら東京高師に出向いて、懇望する校長の努力があったことにも触れた。
 今回からは、私がサッカー部員となって、新しい生活に入ることになる。


“軍用犬”からサッカー部員へ

 昭和14年(1941年)4月――3年生になった私は、自分からサッカー部に入りたいと言い出す。
 前年の夏に日本犬“リキ”が死亡し、次いでゲティと友人宅のめす犬との間に生まれ、わが家にいた幼犬も、リキの後を追うように死んでしまったことも、遠因だったかもしれない。
 動物と暮らす楽しさは、また彼らとの別れの悲しさがついて回る。そのことがつらくて、それまで傾いていた「軍用犬を扱う仕事をしたい」という気持ちを消すことになったのだろう。
 もう一つの原因は“部員”の価値を認めざるを得なかったこと――学校の正課の剣道で、私は1年生から2年生はじめごろまで、学校内の試合では、たいてい何人かに勝ち抜いていた。ときには9人抜きもあった。その相手の中には、剣道部の者もいた。
 ところが、2年生の2学期には勝つことが難しくなっていた。夏休みの練習で彼らが上達し、たくましくなっていたことを知ったのだった。
 運動部に入部するならサッカーだったが、体は小さく、しかも3年からではすでに2年間のハンデもあり、いまさら選手になろうとは思わなかった。5年生のマネジャー、則武謙の下でサブ・マネジャーという雑用係をすることになって、すぐこの仕事に没頭することになる。
 則武謙、通称「ノリさん」は兄・太郎と1年生のとき同じクラスで、学級対抗の野球の投手と捕手で組んだときからの仲間であり、海浜に近いこの人の家へ泳ぎに行ったりしていた。
 途中でしばらくサッカー部をやめていたのを、太郎が4年生の秋にキャプテンを友貞健太郎から引き継ぐときに、自分とともに部内を取り仕切る役に、ノリさんを引き込んだらしい。わが家の2階で二人が長時間にわたり話し込んでいたのを記憶している。
 兄・太郎のハラづもりは、自分はプレーとレギュラー(トップチーム)のレベルアップの先頭に立たなければならない、というもの。前年は5年生も経験者揃い、4年生も太郎をはじめツブが揃っていたが、この年度の5年生は10人いるが、4年生が3人、6人の3年生も抜擢できるものはいない。いわば層の浅い年度で、技術も体力も一段上の太郎には危機的に見えたのだろう。そのため、親友の助けが必要だったのだ。


(週刊サッカーマガジン2000年7月19日号)

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