賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >北の労働者が促したプロ化と、スコットランドの技術、戦術

北の労働者が促したプロ化と、スコットランドの技術、戦術

 イングランド・リーグに関して、“北”はひとつのポイントであった。
 FAカップが始まってから12回目、1882〜83年シーズンに“北”のチームが初優勝した。マンチェスターの北西40キロにあるブラックバーン。当時、世界のトップにあった綿織物の町からやって来たブラックバーン・オリンピックが、決勝で前年王者のオールド・エトニアンズを2−1で破ったのだった。
 オールド・エトニアンズのメンバーは資産家か、有閑階級、つまり、スポーツに必要なお金や時間のたっぷりある人たちだが、工業都市ブラックバーンのプレーヤーは、歯科補助技工士、織物工、紡績工、配管工、鋳鉄工など、さまざまな仕事についていた。ふたつのチームは、いわばそれぞれの階層、ブルジョア階級と労働者階級の代表でもあった。そして、それまでの11回の優勝チームが、いずれも“南”のチームであったのに、こんどは北のチーム、労働者のクラブがFAカップを獲得したのだった。
 工場の労働者が試合のために北部からロンドンへ出かけることは、旅費もかかるが、それだけでなく工場の仕事を休むわけだから賃金が減る。練習のために労働時間を費やせばその分、減収となる。そのアナ埋めを、サッカーの出場による手当で補うことになる。“紳士階級”ではまったく考えられなかった“遊び”のスポーツ、“遊びである”サッカーが、北部、工業地帯では収入をともなうものになり始めていた。

 ブラックバーン・オリンピックのFAカップ優勝は、単に“北”の人たちの地域意識を高揚しただけでなく、勝つことが人気につながり、それが、試合の入場料収入の増加になることも教えた。
 クラブは勝つために優秀なプレーヤーを求めるようになった。北部イングランドの北に隣接するスコットランドは、そのころサッカー熱が高まっただけでなく、技術的にも優れたプレーヤーを生み出していた。とくにスコットランド人が好んで使う“短いパス”戦術は、イングランド式の個人プレーよりも、実際の試合では効果的だったから、クラブではスコットランドのプレーヤーの“輸入”に力を入れるようになった。
 すでにFA(フットボール・アソシエーション)は“休業補償”という意味でのプロフェッショナリズムを1882年に認めていた。これは、あくまで試合や練習のために失った賃金を保証する程度のものだったが、1885年にプレストン・ノースエンドがプレーヤーへの賃金の支払いを公表すると、FAもしぶしぶ、これを認める形になった。そして、イングランド北部、中部のクラブは“選手を雇う”ことを明白にした。

 この年、1885年にプロフェッショナルを取り入れることを表明したのは、現在の1部リーグにいるマンチェスター・ユナイテッド、エバートン、アストン・ビラ、いまは2部にいるストーク・シティ、バーミンガム・シティ、3部にいるボート・ベイル(ストーク市)、ノッツ・カウンティ、バリー、4部にいるが伝統あるドンカスター・ローバーズなど(1部のダービー・カウンティは、これより早く1884年、4部のバーンリーは1883年にプロを導入している)。


(サッカーダイジェスト 1989年「蹴球その国・人・歩」)

↑ このページの先頭に戻る