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ケビン・キーガン 「ヘディング練習はよく壁を使ってやりました」

ジャパンカップで来日したケビン・キーガンにインタビューした。世界のトップに立つ彼には、ジャーナリスティックな話題も、いっぱいあるはずだが、体格の優れたアングロ人のサッカーで、日本人と大きさの変わらないキーガンが、どうして世界から尊敬されるプレーヤーになったのかを、彼の口から聞こうとした。名古屋・都ホテルのレストランで、対ヤマハ戦の当日の午前、コーヒーを飲みながらのインタビューで、彼はユーモアをきかせながら、人並はずれて小さかった子供がマイティ・マウスへ変わっていく過程を静かに、熱心に語ってくれた。


最初はGKをめざしてた!!

――サッカーを始めたのは何歳から。

「そう6、7歳からです。そして10歳までゴールキーパーをやることばかり考えていた。」

――ゴールキーパーをネ。

「ナンバー7(ウイング)やナンバー10(MFかFW)などは一度もしなかった。ゴールキーパーばかりだったんです。それが11歳のときに学校の先生に、君はゴールキーパーには背が低くて向いていないと言われた。それで7番をやらされた。11歳のボクは、このときとても失望したんです。」

――GKのどこにあこがれたの?まあセービングなどはかっこいいから……。

「ジャンプ・キャッチや、セービング。うん、泥まみれになるところなんかもネ。だからいまでもゴールキーパーは好きで、もしGKがケガしたら代わりたいくらいだ。でもそれこそ、背が低くてダメでしょうがネ。」

 試合前のウォーミングアップで、キーガンはよくゴールの中へ入って、ゴールキーパー役をしている。ヨーロッパの子供たちはGKにあこがれるらしいが、わたしには小柄な少年だったキーガンには、このことは特別な意味があったのではないかと思う。土まみれになることをいやがらないこと。ジャンプ力、そして先生に引導を渡され、自分は上背の点で、他の連中と違うことを知らされたこと。
――それは、ドンキャスターの小学校時代ですね。

「ドンキャスターでは、ボクは、はじめに聖フランシス・ザビエルというカソリックの学校へはいった。とても小さくて、生徒は40人もいなかったろう。だからチームを作るときは、もうひとつの学校(これも小さい)と合同で、うちから5人、向こうから6人という調子でやっていた。」

 英国では5歳になると小学校へはいり、11歳まで。11歳のときにテストがあり、この「イレブン・プラス」というテストの結果、成績のよいものはグラマー・スクールへ進み、高等教育への予備訓練に入る。成績のよくないものは普通中学か、専門学校へ進み、16歳で卒業すると、たいてい職業につく。
 労働者の子弟は普通中学、あるいは専門学校のコースへ進むものが多い。キーガンもその道を歩んだ。

「12歳で中学校へ入り、ここの学校代表チームは町では強かった。イングランドの学校は、12〜13歳、13歳〜15歳の年齢別チームをつくる。13〜15のなかから学校の代表チームができる。」

――このころも、やはり小柄だったの?

「小さかったんです。15歳のときに5フィート(約150cm)なかったんです。身長は4フィート11インチ(149cm)、体重は6ストーンズ(38kg)だったと覚えています。ドンキャスター市の中学選抜にも、学校からの候補として参加したが、結局は選ばれなかった。」

 いつもプレーを見ている中学校の先生には、キーガンのよさはわかっていても、選考する側から見れば、地域選抜に入れるには、キーガン少年は、あまりにも貧弱な体に見えたにちがいない。
――そのころ、あなたは何が得意だった?ドリブルとか。

「そう、ドリブルはネ。ヘディングも。それから得点もよくしてました。学校を卒業するころに、コベントリー・シティから誘われたんです。ご存知でしょう、一部リーグのコベントリーを。200人の少年が集まって、そのなかからテストを受け、わたしともう一人が残り、6週間の特別練習に参加した。練習や試合を繰り返した後、もう一人の大きい少年はアプレンティス(見習い生)として契約できたのに、ボクは『キミは上手で才能もあるが、小さすぎる』と言われたんですヨ。」

――それで。

「コベントリーのテストから帰って、ドンキャスター・ローバーズという4部の小さなクラブに入ったんです。プロじゃないから工場で5日働き、土曜に3回、日曜日に2回試合をするという生活だった。ある日曜日にスカンソープのスカウトが来て、ボクとプレーしたあと、スカンソープ入りをすすめた。」

 ドンキャスター・ローバーズのユースチームのほか工場のチーム、ホテルのチーム、なんでもかんでも試合に出ていたらしい。そして1967年2月、ドンキャスター市から50kmほど東のスカンソープにある、スカンソープ・ユナイテッドでアプレンティスとなった。
――アプレンティス(見習い生)というのはイングランド独得の制度ですが、年齢制限がありましたネ。

「16歳の誕生日がこなければ、契約できないのです。そして18歳の誕生日までにフルタイムのプロ選手になるかどうかを決めなければならない。(筆者の記憶では、15〜17歳だが、変更されたかどうか、定かでない)監督から、別の仕事を探したほうがいい、と言われれば、それで終りです。プロになれなかったら、仕事を探すにしても(すでに就職している同年輩の若者とは)2年のハンデがある。近頃は、アプレンティスの待遇も見直されて、練習時間外に、FAの負担で学校へ通ったり、職業訓練に通ったりできます。そしてひとつのクラブでアプレンティスは15人までと決められている。リバプールのような大きいところは15人、ニューキャッスルには、いま5人いる。彼らの給与は週給25ポンド(約1万円)。まあ普通の職業(週給60〜70ポンド=24000〜28000ポンド)に比べると低い。」

――1966年にイングランドがワールドカップに優勝しましたね。

「そう。とてもすばらしいことでした。わたしは、とくにアラン・ポールに強い印象を受けました。小柄な彼が、あのようなヒノキ舞台で立派な働きをしたのですから。」

――わたしは当時、ボビー・チャールトンに強い印象を受けました。

「彼はすばらしいプレーヤーで、また国際的にもサッカー大使と言われるくらい、世界中に知られています。」

――よく動きながら、試合の流れを見きわめるところは、あなたと同じですね。

「その点はネ。だが、スタイルは違います。彼に比べられるのはうれしいが、走り方が違うし、頭髪だってずいぶん違うでしょう(笑)。彼のキャノンシュートは、20m、30mの距離からズドンときます。」

 キーガンは対談のなかで、たびたび“ツー・スモール”(あまりにも小さい)という言葉を使っていた。彼の少年期から成長期は、この“ツー・スモール”との戦いだったろう。だから彼には小柄なアラン・ポールがきわめて身近な手本に見え、あこがれとなったようだ。


恩師シャンクリーの思い出

――1971年にリバプールへ移ったが。

「すべてがスカンソープと違っていた。スカンソープは2、3千人のサポーターだが、リバプールは6万人が応援に来る。インターナショナル・プレーヤーがいっぱいいて、水準は高く、人気チームだから、プレスはしょっちゅうインタビューにやってくる。」

――赤いユニフォームは市民の誇りだし・・・

「ここではなにより、ビル・シャンクリー監督に接することができたのが幸いでした。彼は物静かでサッカーをよく知っていただけでなく、わたしにサッカーへの献身ということを自分で示してくれた。1日24時間、1週7日間、1年52週間をすべてフットボール、フットボール、フットボールだった。21歳の若いわたしは、フットボールに打ち込む人を見たことで、後にまで大きな影響を受けた。」

 シャンクリーを語るとき、彼はちょっと遠くを見る目つきになった。リバプールの名物男、戦後のイングランドで偉大な監督の筆頭にあげられるビル・シャンクリーは1981年9月に67歳で亡くなった。その日、リバプール市庁舎には半旗が掲げられ、葬儀の日には多数の市民の列が続いた。
――あなたのヘディングの技術は、このころに固まったの?

「ヘディングは11歳のころ、小さいからGKは無理と言われたことから、よく練習していた。一人でよくやった。壁にボールをあててね。壁というのは、いい練習のパートナーでネ。」

――壁はミスキックしないから(笑)。あなたのヘディングはジャンプ力がすばらしくて、競り合いに強いことで人を驚かせているが、わたしは、むしろ3〜5mの短い距離のヘディングパスが狙い通りにゆくのに感心しているんです。方向やボールの強さのコントロールがすごいと思う。壁を相手の、子供のころからの練習のおかげですか。しかし、ヘディングについてはやはり生まれつき才能があるのかなァ。

「そうだろうか?……。ボクはヘディングというのは、サッカーの技術のなかでシューティングや、ドリブリングよりも練習の効果があらわれやすいと思っている。
 リバプールにスティーブ・ハイウェーという選手がいた。彼は26、7までアマチュアだったが、3年間のプロフェッショナル・トレーニングでヘディングは実に上手になって、ずいぶんチームのために働いた。まあ、ヘディングはタイミングだから。そう、小さい選手が大きい選手にヘディングでせり勝つのもタイミングだからネ。」

――あなたが、相手の前でヘディングを取る。つまり、ボールのニアサイドに入ってくるのもリバプールで身につけたのか?

「そうです。ここには、ビッグなトシャックがいた。彼がゴール前に行くと、相手の一番背の高いディフェンダーは彼につく。そしてわたしのマークは、それほどの超ノッポではないのがくる。わたしにもチャンスが来る。」

――トシャックがファーポストで待ち、あなたがニアポストへ走りこみ、相手の前でかっさらうわけだね。

「そう、スピードをあげてネ。」

――ジャパンカップでの第1戦のゴール右からのクロスを、マークしている選手の前に走りこんでヘディングしたのも同じスタイルでした。リバプールではこのヘディングはもちろん、シューティングや、センタリングや、いろいろな技術を特別に練習したのですか。

「すべての技術の練習をしましたよ。シュートにしても、パスにしても、結局はたくさん練習することです。」

――リバプールでのあなたのハイライトは1977年のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップですね。決勝であたった西ドイツのボルシア・メンヘングラッドバッハのベルティ・フォクツとのマン・フォア・マンの戦いは歴史に残る名勝負といわれていますネ。

「うん、もう古い話だが、ボクはよく覚えていますよ。ベルティ・フォクツがボクにぴったりくっついていた。いつもあまりいっしょにいるものだから、ワイフが嫉妬した(笑)くらいですよ。フォクツはご存知のとおり、77年は峠をすぎ、あのタックルの早さなどが少し落ちていたようだが、なお立派な選手でした。彼のマークは厳しく、プレーはハードだが、フェアでね。ボクたちが1−0で勝ったが、その夜、我々がパーティをしていた同じところでボルシアのパーティもあった。向こうから合流してきて、一緒に飲んだ。あれは本当によい思い出だ。以来、いい友達だ。この試合はまたドイツのファンに強い印象を残したらしく、おかげで、わたしがこのあとハンブルグに移ったときには、たくさんのドイツ人がボクのことを知って、いろんな人がきてくれた。」

――ハンブルグに話が移りましたが、西ドイツであなたのサッカーは変わりましたか?

「変わったと思います。ドイツとイングランドとではサッカーのやり方はずいぶん違います。イングランドでは、相手がゴールに近づいて、はじめてクローズド・マークになるが、西ドイツでは中盤からマン・フォア・マンになる。あまり、いつも近くに相手がいるものだから、ハーフタイムにいっしょに向こうのベンチへ行きたくなる(笑)。わたしにはドイツのやり方があっていた。」

――まあ、あなたは、味方ボールのときは、すばやく相手マーカーから離れ、ボールに寄り、早い動きで走り、そして急激に方向を変える……から。

「そう、その手でネ。マン・フォア・マンというのは、こちらにも相手が見えている。相手を常に視野にいれておけるから、かえってボクにはやりやすい。西ドイツでプレーしたために、わたしはイングランドのいいところを残して、ドイツから多くを学んだ。」

 キーガンは、マン・フォア・マンでマークされることは、同時に、自分も相手をクローズド・マークしていることを悟ったらしい。それは、単に攻守への切り替えのときに、相手を捉えやすいだけでなく、自分に対するタックルも、相手の位置がわかっているだけに、読みやすいわけだ。キーガンのプレーは小さなステップによるターン。長い距離を走っていての方向転換に特徴があり、待ち構えている大きな壁に突っかけていくよりも、マーク相手を引きつれて走り、急速ターンによって振り切る方が得手のようだ。ハンブルグで、中盤からの長い疾走によって、その休むことを知らぬ動きがさらに効果をあげることになった。


将来は子供の指導をしたい

――西ドイツでの3年目、つまり最後のシーズンが終わった1989年6月にイタリアで欧州選手権が行われ、イングランドは期待されていたのに、結局上位にくいこめなかった。

「イングランド代表はいつも国内の過密スケジュールの影響をうける。80年も準備不足、負傷者などのためベストコンディションで試合に臨めなかった。」

――82年スペイン・ワールドカップでは、あなた自身が背中を痛めていた。

「スペインのことは、あまり思い出したくないことです。もう少し早く回復すればねえ。ヨーロッパ選手権のときは、まあ不満ではあっても、ボクには2番手の大会だったから……。なんといっても目標はワールドカップだったんです。」

 淡々とはしても、82年ワールドカップの話になると、どこか沈んだ顔になる。
――世界中をプレーしてまわって、どこが気に入りましたか?

「うーん。アメリカがいいね。というのは誰もボクを知らないから(笑)。ニューヨークの街中を歩いても気楽でいい。日本に来る前に寄ったマレーシアは、景色がきれいだった。モロッコのカサブランカはエキゾチックで、日本はすべてがアメリカ流の感じで、考えていたのとは違った。といって悪いといっているんじゃない。順序正しく、人びとは礼儀正しく、きちんとして、とても気分がいい。ホテルの食事がクーポンで支給されるのだけは小学生の団体旅行の感じで、いただけないね。」

――それは日本人のクセで、なんでもひとつのコース、ひとつのセットで済ませてしまい、一人ひとりの好みとか、選択の余地がない。日本サッカーの欠点もそのへんにあると思うのだが。

「それは当たっているように思う。サッカーはそれぞれの国が自分に合ったやり方をしている。西ドイツやイングランドや南米流や、いろんなスタイルがある。日本も自分にあったやり方を見つけることだ。」

――長いキャリアのなかでいちばん印象に残っている試合、会心のゴールはどれでしょう。

「やはり1973年に、はじめてイングランド代表でデビューした試合。22歳の誕生日がもうすぐというときだった。それと、さきに話したリバプールでヨーロッパ・チャンピオンズ・カップを握った1977年の試合。あれは、リバプールでの最後の試合だから余計に心に残っている。そう仲間のテリー(マクダーモット)の先制ゴールだったしね。
 得点については、78年ワールドカップ予選でイタリアに勝ったとき、ヘディングで決めた1点。右からブルッキングが出してきた斜めのクロスを走りこんで、ヘディングで方向を変え、ゾフの上をこしてゴールへいれたんです。狙ったとおりのゴールだったから……。」

――そのあとベネッティにやられたネ。

「見事にキッキングでやられた。ああいうことはイタリアの選手はよくやるけど、スペイン・ワールドカップのマラドーナはジェンティーレに痛めつけられて気の毒だった。3回もすごいのがあったよ。」

――サッカー以外で好きなものは。

「競馬、馬も持っている。自分で乗るのも好き。テニス、ゴルフ、アクティブなものがいい。自動車はジャガーXJ12、ジャガーEタイプも。クラッシックカーは6台、1931年型ロールスロイスもある。食べるものは、魚が割に好き。だから日本はいい。アルコールはたいしたことはなく、ビールよりコーラ党。コーラは歯に悪いというんだがつい飲んじゃう。ワインは食事のときに少々。タバコはノー。好きなカラーって。うーん、別にないです。」

――頭髪のスタイルは。

「いまの形は、ハンブルグへいってから、これなら練習のあとシャワーを浴びても型は変わらない。サッカー用にいちばんいい。リバプールのときはもっと長くて、横に開いてまるで飛行機の翼みたいだった。ビートルズスタイルだって。そういえばねえ。
 ビートルズに直接影響を受けたとは思わない。リンゴ・スターやマッカートニーたちにも会ったことはあるが……。彼らは、あれだけ騒がれながら自分の好きなことを通したのがいい。」

――ビートルズのナンバーではどれが?

「イエスタデー。最近のボクにはイエスタデーが多いが(笑)、いや静かな曲が好きだから。」

――そういえば、あなたが歌ったヘッド・オーバー・ヒールズ・イン・ラブも静かな、きれいな曲ですネ。あれはよく売れたでしょう。

「『ユー・メイ・ビー・ア・ストレンジャー バット・ザッツ・ファッツ・タイム・キャン・ドウ……』(と口ずさむ)。あれはケルンのポリドールから発売した。西ドイツでは22万枚、英国でヒットチャートの13位、オーストラリアで5位にはいったこともある。歌詞だって5年前のことだから、全部は覚えているかどうか。」

――サッカーの頂点に立ったあなただが、これからの計画はどうだろう。

「だんだん下り坂になることは確かでしょう。自分でも将来のことは、まだわかりませんが、来季はニューキャッスルでプレーするつもりです。これから契約の話し合いにはいるのです。年限は1年。ボクのような年齢になって、3年もの長期の契約をすることはクレージーです。ボクにもクラブにも1年契約がいいのです。プロフェッショナルとしてのプレーは、自分がベストでなくなったと思えば止めます。若くていいプレーヤーも出てきているが、彼らは調子の波が大きくて、コンスタントに安定している点では年寄りもすてたもんじゃありません。コーチするのは好きだが、プロの監督やコーチになろうとは思わない。やるなら子供の指導がいいですね。」

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