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第1回 釜本邦茂(1)足のシュートもヘディングシュートもボールを注視した

 英国の大記者ブライアン・グランビルが何年か前に「フットボール・メモリーズ」という本をヴァージン社から出版した。サイン入りで送ってくれたのを拾い読みすると、なにしろサッカーの母国だけに、彼の回想はそのままサッカー史でもあり、とても面白い。ワールドカップの旅の2年半近くの連載の次の企画を編集者と相談したとき、この話が出て、“賀川浩のフットボール・メモリーズ”でどうかとなり、それも年代順の回想ではなく、人生を主に、しばらくプレーヤーをということになった。
 本来ならベルリン・オリンピック(1936年)の代表あたりから、と思ったが、まずは誰もが認めるストライカー釜本邦茂からはじめることにした。


高一の釜本邦茂を初めて見た日

「ちょっと見てほしい選手がいるんや」と岩谷俊夫が言った。1961年1月、第39回全国高校サッカー選手権大会が西宮球技場で行なわれていた。
 当時、この大会であった毎日新聞社の記者であり、日本協会(JFA)の技術委員を務めていた彼は私の神戸一中(現・神戸高校)時代からの仲間。そのトッさん(俊夫のこと)とともに第2回会場になっていた野球場(西宮球場)へ行くと山城高校(京都・滋賀代表)と横浜商高(西関東)が試合をしていた。
 そこに釜本邦茂がいた。
 前年の秋、熊本での国体で山城高校は優勝し、釜本と山城高校は名が知られるようになっていた。ただし私は、そのころ大阪ではなく東京にいたから、彼を見ていないし、予備知識もなかった。
「ふーん。この子が」
 まず背が高いというのが第一印象。ヒョロリとした感じで、力強くもなく、速くもない。しかし、後方から来たボールのバウンドを足を上げて止めた時、そのゆったりとした動作と体のバランスに何ともいえない魅力があった。
「この子が東京オリンピックに間に合ってくれるかどうかやネ」
 初めて彼を見たとき、岩谷は『体が震えた』そうだ。私はトッさんの“感動”というより、何これまでにない異質のものが、日本サッカーに現れたといった不思議な感を持ったものだ。
 元日の夜行で東京から戻ってきて、いささかボャーッとしていた頭のせいか、その試合の経過などはまったく記憶にない。ただ、ヌボーとして野球場のピッチに突っ立っていた彼と、足を上げてボールを止めた情景は今も薄れていない。


フランスMF、ラルケの賞賛

 あの日から40余年、1944年4月15日生まれの釜本邦茂は還暦を過ぎ、JFA副会長の要職にあるが、高1から1984年8月、国立競技場を満席にした引退試合まで、彼が演じた数々の名場面と卓越した記録は、彼と同世代のファンに、ストライカー・カマモトと生きた喜びを味わわせた。
 先述のグランビルも「メモリーズ」のなかで自分がカバーしたメキシコ・オリンピックについて「この大会から導入されたイエローカードとレッドカードを出し過ぎたレフェリーによって決勝まったく台無しになってしまった大会だが、3位決定戦でプロで固めたメキシコ代表を日本が倒すといううれしい驚きもあった。その日本の攻撃をリードしたのが力に満ち、厚い胸をした印象的なカマモトだった」と記している。
 準々決勝で日本と対戦したフランスのMFミシェル・ラルケは84年欧州選手権のとき、「カマモトは元気にしていますか」とたずね、「素晴らしい選手だった」と何度も繰り返した。


アーセナル・ゴールと眼

 彼の特徴は、まず当時の日本人としては異質ともいえる良い体を持っていたこと、そしてまたゴールを奪うことへの執着が格別に強かったこと。それがシュートへの反復練習となり、キックが上達し、ヘディングも極めて巧みになった。サッカー選手で当然のことを言いながら現代のプロにもシュートやクロスの精度も高くないものもいるのに、釜本はインステップもインサイドキックもチップキックもしっかり蹴れた。ヘディングは驚くほど落下点の見極めが良く、このため自分より長身の外国の選手にも競り勝つことが出来た。
 こうしたストライカーの基本技術の確かさを支えたのは、彼がプレーのときに、ボールを注視することだった。
 ここに掲示する写真は1968年5月23日に国立競技場で行なわれた日本代表対アーセナル(イングランド)第1戦での釜本のダイビングヘッドによるゴール。右からのクロスに合わせて飛び込み、頭に当てて方向を変え、イングランドのトッププロのゴールを破ったが地面に落下してなお、彼の目はボールを追っているのをこの画面はとらえている。その注視はもちろん、足のシュートも同じことである。詳しくは次号で。


(週刊サッカーマガジン 2005年1月4日号)

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