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大戦争前の光彩(6)

慶応か神戸か

 昭和15年(1940年)4月に、私は神戸一中の4年生になった。兄・太郎は神戸商業大学予科(現・神戸大学)に進み、妹・清子は雲中小学校を卒業し、神戸女学院へ入学した。
 前年の9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、英国、フランスがドイツに宣戦布告。大戦はすでに始まっていた。中国へ侵略した日本軍は、占領地を増しても解決の糸口もつかめず、国内にも“非常時局”は重くのしかかってはいたが、私たちはまだ親の庇護(ひご)の下で、サッカーや勉強に打ち込めていた。
 兄の進学については悩みもあったようだ。官公吏になる気はなかったから、高等学校から帝国大学への道は考えず、神戸商業大学に新設される予科と慶応の理財課(経済学部)の両校を受け、二つとも通ってしまった。
 サッカーという点からいえば、当時の慶応は昭和12年から関東大学リーグで連続優勝しているだけでなく、日本選手権(現・天皇杯)のタイトルをも握ったナンバーワンチーム。そのセンターフォワード・二宮洋一、ハーフバック・笠原隆、GK・津田幸男は神戸一中36回卒業。二宮先輩の足を運んでの誘いに心が大きく傾いたが、結局は神戸を選んだのだった。
 新設の予科は全寮制で、(旧制)高等学校的な自由で独特の気風を育てる方針。学校もサッカー部も一回生の自分たちが一から作りだすところに魅力を感じたに違いない。4年後、6年後には、早稲田や慶応に対抗できるチームを作ろう――あとで振り返れば歴史は急テンポで破局に向かっていたが、その一日一日を生きる若者には、まだ夢を見る余裕が許されていた。


基礎技術、基礎体力
 私自身は、前年の11月中旬から新チームを引き継いだ3人の最上級生を助けてチーム強化に懸命だった。
 長い間、仲の良かったシェパード犬のゲティは前年夏に死亡していた。それも不思議なことに、兵庫県予選の決勝の日だった。言葉を発さない彼との付き合いから、幼いころ短気だった私が“辛抱”することを覚えたのだが…。
 新チームの強化は、辛抱のいる仕事だった。明治神宮大会の優勝メンバーから10人が卒業し、公式試合の経験者は最上級生の3人だけ。4年生6人、3年生12人、2年生11人と下級生が多く、しかも前年秋は、11月まで明治神宮大会があり、1軍練習に時間を使ったために、低学年の練習が遅れてしまっていた。新チームに引き継いでの練習に入ると、日没の早い晩秋、初冬がやってくる。午後3時の授業終了後からの練習はあっという間に暗くなってしまった。
 そのような条件のなかで、皆木良夫キャプテンは、ともかく全員のレベルアップ、個人技術、個人の体力といった基礎重視を打ち出した。私自身もサッカー部に入ってみて、下級生の練習時間の少ないことに気がついていた。ボールを数多く蹴らせるためには――練習中のボールの数を増やすこと――一人ひとりがボールを一個ずつ持ってグラウンドへやってくるいまの少年サッカーの風景からは想像もできないだろうが、20〜30人の練習にボールを8〜10個も使ったら、先輩たちは驚いたものだ。これだけボールを使えたのも、前年度の則武謙マネジャーがボールを買い込んでくれていたからだった。
 生活必需物資の統制令はこの翌年の昭和16年4月に公布され、東京、大阪などで米穀配給通帳制が実施されるのだが、皮製品は軍隊で多量に使うために、それより早くから統制規則が設けられていた。サッカー靴やボールなどの牛皮製品はこのころ値上がりし始め、品不足を見込んでストックする店も現れていた。
 則武マネジャーは70個ほど買い込んだが、その中の不良品を返品することにしていた。その不良品を含めて40個ばかりがこの年度の財産、おかげでいい素材がいる3年生、2年生は、そのころとしてはかなりの数のボールを使って、密度の濃い練習をすることができた。
 しかし、試合経験の不足はどうしようもなかった。私たち4年生のなかで一番力のあるO君が夏の予選の前に急に病死したのも響いて、全国大会は予選の決勝で神戸三中に敗れてしまった。


小学生から中学生へ(4)

昭和14年(1939年)
◇1月 大相撲の横綱、双葉山が安芸ノ海に敗れ連勝は69でストップ
    フランコ軍バルセロナ占領スペイン内戦終わる
◇5月 ノモンハン事件(5月12日−9月15日)
◎8月 第12回全国中学校選手権で神戸一中が2回戦敗退
◇9月 ナチス・ドイツのポーランド侵略、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告。第2次世界大戦
    ドイツ・ソ連友好条約。ポーランド分割
◎11月 第10回明治神宮大会にサッカーの中学部が新設。神戸一中が優勝し、師範優勝の広島師範と天覧試合
◇12月 ソ連がフィンランドに侵入

昭和15年(1940年)
◇4月 ドイツ軍、ノルウェー攻撃
◇5月 ヒトラー、西部戦線での攻撃を指令。ベルギー、オランダ、ルクセンブルクを奇襲
◎6月 東亜大会で日本は満州(7−0)中華民国(6−0)フィリピン(1−0)と3戦全勝

※◇社会、◎サッカー


(週刊サッカーマガジン2000年8月2日号)

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