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大戦争前の光彩(8)
タイトル奪回のために
昭和15年10月、明治神宮大会の兵庫県予選で敗れた後、みなとの祭体育大会で、第一神港、第3神港に勝って優勝したのを餞(はなむけ)に皆木良夫たち5年生3人は部を離れ、私たち4年生が神戸一中蹴球部を引き継ぐことになった。
新キャプテンの黒津亮二、GKの岸本陽三郎(のちに岡田と改姓)、DFの菅原宏、山中弘、そしてマネジャー(主務)の私、健康を害して3年ばかり部から離れていた竹下輝雄も加わった。
私たちの目的は、失った全国大会のタイトルを取り戻すことにあった。何しろ、43回生の私より10年上の34回生(昭和7年度のチーム)からの成績は
◇昭和7年度 第15回全国大会優勝(昭和8年2月)
◇昭和8年度 兵庫県予選敗退
◇昭和9年度 全国招待大会優勝(昭和9年8月)
◇昭和10年度 第17回全国大会優勝(昭和10年8月)
◇昭和11年度 兵庫県予選敗退
◇昭和12年度 第19回全国大会準優勝(昭和12年8月)
◇昭和13年度 第20回全国大会優勝(昭和13年8月)
◇昭和14年度 第21回全国大会準々決勝敗退(昭和14年8月)
明治神宮第10回国民体育大会優勝(昭和14年11月)
◇昭和15年度 兵庫県予選敗退
◇昭和16年度 ?
という調子で、大阪毎日新聞社主催の全国中等学校選手権大会(先輩たちは大毎の全国大会と呼んでいた)での優勝が3回、その大会が冬から夏に移行するために開催されず、代わりの全国招待大会優勝と、昭和14年の神宮大会優勝を合わせると9年間に5回の全国的なタイトルと1回の準優勝を記録している。
その全国大会制覇の列に再び加わるのが望みだが、タイトル獲得のためには中学校レベル以上の朝鮮地区代表に勝つこと――が必要だった。
練習課目に400メートル走
秋の基礎練習は密度が濃くなった。キックは全て目標が設定され、石灰で描かれた円内へ落とすか、立っているだれだれの足元へ――という指示を出した。
そして、ロクボクや鉄棒を使っての筋力強化に40分の時間をかけた。その時間を生み出すために、メンバーを2群に分けて、1群はボールを使っての練習をし、もう1群はロードへ出てのランニングというやり方もした。
いまも当時の仲間が集まると、まず口に出すのは、そうした練習中に行なう400メートル・ランの苦しかったこと。校庭の200メートルトラックを2周するのだが、初めからトップスピードで走り、それを最後まで持続(実際には無理だが)しようというやり方。
これは、高山忠雄(23回生。のちに神戸高校校長)さんから、やれば効果があると教えられたもの。私自身は400メートルを走り切る気持ちの強さを養うこと、また走り終わって、無酸素の状態になってからすぐに回復する体のクセを付ける(機能を高める)ことに意義があると思っていた。
ボールの修繕が日課
秋から冬にかけては単調な基礎技術の繰り返しだが、主力となる3年生はどんどん伸びた。
彼らのほとんどは御影師範付属小学校か雲中小学校の出身で、12歳までにすでにサッカーになじんでいた。2年生は、3年生に比べるとテクニックは低いが、体格のいい者が多く、これで1年生をある程度揃えておけば、少なくとも、私たちが卒業した後の2年間は、全国ナンバーワンは続くだろうと計算していた。
ただし、テクニックを磨くためのボールはいよいよ逼迫(ひっぱく)していた。配給制となり、キップと引き換えに買えるのは1年に15個。値段は1個12円50銭だっただろうか。
その貴重なボールが、この学校特有の硬いグラウンドのために1ヶ月もたたぬうちに傷みが激しくなる。
六甲山の中腹を切り開いた固い花崗岩(かこうがん)の台地にあるグラウンド(もちろん芝ではない)は、砂を入れても山から吹き下ろす、いわゆる“六甲おろし”で飛ばされてしまい、硬い岩肌がところどころ顔をのぞかせる、いわばヤスリのようなグラウンド。ボールもたまったものではない。
練習を続けるためには、破れたボールを修繕だ――と、わが家の私の部屋はボール修繕場となり、夜のボクの仕事となった。
小学生から中学生へ(6)
昭和15年(1940年)
◎8月 第13回全国中等学校選手権で朝鮮地区代表・普成中が優勝(神戸一中は兵庫県予選で敗退)
◇8月 日独伊三国同盟締結
◇9月 日本軍が北部仏印(仏領インドシナ、現ベトナム)へ進駐
◎11月 第11回明治神宮大会の中等学校の部で朝鮮地区代表・中東中が優勝
※◇社会、◎サッカー
(週刊サッカーマガジン2000年8月16日号)