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大戦争前の光彩(9)

ボールの外皮とチューブ

「ウエールズ」「ヴィクター」「オリンピック」という名を聞いて、すぐボールの名称と答えられる人も減ってしまった。私たちのころは、これに「セプター」というのもあった。
 昭和10年ごろはウエールズが丸善の扱いだったから輸入品だったのかもしれない。他のボールが4円50銭のときにウエールズは5円40銭だったという。ヴィクターはミクニ、オリンピックは美津濃(現・ミズノ)の製品。当時のボールは、外皮と空気を入れてふくらませるゴム製内袋(チューブと呼んでいた)が別になっていて、内袋はほとんどがダンロップ製。ボールに空気を入れるためには、外皮の中に入れたチューブの空気注入口(10センチくらいの長さ)から手動ポンプで送り込み、硬さが適当になると、その注入口を折り曲げ、ゴム(または細ひも)で留めて、外皮と内袋のすき間に押し込み、外皮の口を、革ひもで閉じる。
 現在のように、空気注入口が(ポンプからの注入が終わり、ポンプを抜いたあと)自動的に収縮するようになったのは大戦後、かなりの年月を経てから。戦前にも、このヘソからの注入の試作もあったが、結局、空気が漏れてしまうのだった。
 サッカー部のマネジャーの仕事の一つにスポーツ用具店から買い入れたボールを全部、空気を入れて完全な球体かどうか調べるのがあった。しかし配給制になると、そんな質の点で注文をつけることもできなくなった。
 そういう時代に35〜40人の練習に、しかも損傷度の大きい神戸一中の硬いグラウンドで、一日8個のボールを使う練習を続けるには、破れたボールの外皮を修理し、内袋の空気漏れの個所を調べ、そこに自転車のタイヤチューブ用ののりで補修することになる。


ボール破損で練習変更も

 当時の使用球のほとんどは12枚の皮を縫い合わせたもので、球を6面体と考えると、その1面に2枚ずつ使っている。均質の皮のときは、長く使用しているうちに全体の皮が薄くなり、ボール全体が少しずつ大きくなるのだが、そうでない場合、弱い部分から破れる。初めは学校近くの靴屋さんに修理を頼んだが、時間的に間に合わないので、結局、自分の手でということになり、靴屋さんで、皮を縫う糸を分けてもらい、それをより合わせ、チャンと称する松ヤニを塗ることも教えてもらった。
 破れた個所に皮をあてて縫ったが、それでは、そこが重くなってボールのバウンドがおかしくなるので、やがて、その弱い皮を一枚分、取り替えるようになる。問題は、メーカーによって、ボールの皮の形状が違うこと。タチカラは直線に裁断したてい形(台形)で、ヴィクターは大まかにはてい形だが、丸みを帯びている。そしてまた、縫い合わせの糸目の数が、わずかに違うことも、皮の取り替えの苦労の一つだった。
 素人の仕事だから、縫い合わせも完全とはいい難い。より合わせた糸の強度もプロのものと違っていたかもしれない。練習中に8個のうち6個が使えなくなって、ボールを使う練習からランニングに切り替えたこともあった。
 やがて、近くに住む同期のゴールキーパー岸本(現・岡田)陽三郎、1年下の田渕英三、3年下の祖父江勝たちが、夜にわが家まで足を運び、修理を手伝ってくれるようになって、春休み(OBが多数来てくれるので、ボールの数も多くなる)も乗り切れた。
 昭和16年の春休みは例年にも増して多数のOBが校庭に集まってくれた。高山忠雄、赤川(旧・西村)清といった昭和5年の極東大会代表をはじめ、播磨、小畠、小野、二宮、笠原、田島(昭)私より7〜10年上の日本代表級から、それより若い、大学、高校の世代、それらの代表あるいは代表候補を相手の試合を繰り返し、一つひとつのポイントに注意を受けていけば上達しないほうがおかしい。
 春休みを終わった昭和16年のチームは、初夏の県下リーグも楽に勝ちはしたが、まだ問題点が一つ残っていた。それは私自身にも関連していた。


小学生から中学生へ(7)

昭和16年(1941年)
◇5月 ドイツ・ソ連戦始まる
◇7月 大本営が関東軍特別軍特別演習(略称=関特演)を発動。満州に85万の兵力を集結
◎8月 「関特演」による国内の輸送制限のために、野球・サッカーなどの全国大会中止(神戸一中は兵庫県大会で優勝)
◇8月 アメリカが対日航空機用ガソリンを輸出禁止
◇10月 第3次近衛内閣総辞職、東条英機内閣成立
◎11月 第12回明治神宮大会で神戸一中優勝(普成中と引き分ける、両校1位)
◇12月 日本軍ハワイを空襲、マレー半島に上陸、太平洋戦争始まる

※ ◇社会、◎サッカー


(週刊サッカーマガジン2000年8月23日号)

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