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デットマール・クラマー「『日本サッカーの父』に聞く」

日本代表に経験ある中田英寿は欠かせない

 日本サッカー殿堂の掲額式出席のために来日したデットマール・クラマーに久しぶりにインタビューした。時間が短かったが、キリンカップサッカー2005の日本ーUAE戦の日本代表の試合ぶりから、アジア予選への見通し、さらにはいまの世界のサッカーについて、ずばり核心を突く話しぶりだった。


経験のある選手がいるかいないか

――まずは殿堂入りおめでとうございます。

「第1回の掲額に招かれてとてもうれしく、光栄に思っている。功労者を讃えるこういう制度はドイツにもまだできていない。素晴らしいことだと思う」

――いま私は、サッカーマガジンに「マイ・フットボール・メモリー」という、記憶に残る選手や監督について書かせてもらっている。この号はケビン・キーガンでした(6月10日号を見せる)。

「キーガンねぇ。いいプレーヤーだった。私がバイエルン・ミュンヘンの監督をしていたとき、彼が欲しくてチームに入れようとした。いいところまでいったのだが、結局は獲得できなかった。金額面で合わなかったのだ」

――当時のドイツは(西ドイツだったが)、ヨーロッパで最もレベルが高かったから、キーガンもブンデスリーガでやってみようと思った。

「残念ながら、いまはそうではない。多くの問題があって…。クラブにはジュニアにいい選手がいても、トップチームへ上がっていけない状態が続いている」
 (クラマーはボスマン判決以来のEU域内でのルールによって、各クラブが外国人選手を多く採用するようになってから、ドイツのプレーヤー育成の効果が表れないことを、ここしばらく会うごとに口にする)
 
――チャンピオンズリーグで優勝したリバプールも、イングランドの選手は二人だけだった。

「そう、クラブではそれで良くても、ナショナルチームとなると問題になるのだ」

――ところで、昨夜(5月27日)のキリンカップ2005での日本ーUAE戦を見てくれましたね。どうでしたか。

「とても忙しい試合だったね。スピードが速過ぎた。日本がゲームをコントロールし、攻撃ではチャンスが10回もあって、簡単に勝てそうにも見えたが、ゴールを奪えなかった」

――アジア予選では重要なバーレーン戦のアウェーを前にして。それによく似たUAEの試合に1点も取れず、カウンターを防げずに失点した。0−1の敗戦で本番に不安を感じた人もいる。

「試合の後で、多くのコーチやメディアでそうした話が出た。私は、ジーコはそうは思っていないだろうと言った。
 この試合では、選手たちはスキルを見せた。しかし効果的ではなかった。つまりゴールを奪うプレーができなかった。
 たとえばキラーパス。相手の二人のディフェンダーの間を通すスルーパスにミスが多かった。これも効果的でなかった一つだ。その大きな理由は、最も経験があるプレーヤーが出ていなかったことだ」
 
――中田英寿と中村俊輔が出ていれば違っていた?

「経験を積んだプレーヤーは、スキルを、どこで、いつ生かすかを心得ている。いまドリブルするのか、パスするのかの判断もできる。
 昨夜の試合でも、点を取ろうとしていたが、それには遅過ぎる場面もあった。相手のゴールキーパーと3人のディフェンダーが守っているところへクロスを送って、はね返され、3〜4人が守っている前でシュートを打っては、はね返されるということもあった。
 経験あるプレーヤーは、いつドリブルするか、いつパスを出すかというタイミングを知っている。こういうタイミングを心得たプレーがなければ、フィニッシュは成功しない」
 
――その中田英寿をどういうわけか批判のやり玉にあげたがるメディアも多いんですよ。

「私は1997年だったか、世界選抜とフランス代表の試合でナカタを初めて見た。素晴らしい選手だと思った。このとき、一緒に食事もした。
 彼は試合の流れを読むことができる選手だ。もちろん、技術も高い。そして、その技術をいつ、どのように使うかを知っている」
 
――中田英が日本代表に参加しなかった間に、中村俊輔が中心になって、昨年中国でのアジアカップで優勝した。ことし3月のワールドカップの予選で、中田英が日本代表に加わったが、イランに敗れた。
 そこで、メディアやコーチたちの中から、中田英と中村のどちらだ――という意見が出た。私は、二人が話し合えば解決する問題だと言ったのだが…。
 
「そう、二人の間で話し合うこと。そして、互いの仕事のやり方を理解すること。それと反復練習をしなければならない。そうすれば、うまくいくものだ」

 
オベラートとネッツァー、ミュラーとぜーラー

――1974年のワールドカップ直前に、西ドイツのメディアはオベラートかネッツァーかで大騒ぎした。今度の中村か中田英かも同じように見る人もいたが、私はそれと違う問題だと考え、上手で経験のある二人とも日本代表に必要だと思っていた。

「経験あるプレーヤーの間には、互いに話し合えば解決できないことはない。
 こういう問題では、まず互いの心が大切だ。そのマインド・バリアー(心の壁)を超えれば、あとはプレーをどうするか。そこからは練習なんだ。
 1966年のドイツ代表のストライカーはウーべ・ゼーラーだった。1970年にはゲルト・ミューラーが力を付けてきた。70年のワールドカップで二人のスター・ストライカーは、互いに見事に、それぞれの役割を演じた」
 
――ゼーラーは、広く動いてミュラーをサポートした。そしてミュラーは大会の得点王になり、ドイツは3位だったが、優勝したブラジルと決勝で戦わせたいチームだったと評価された。

「ゲルト・ミュラーは、ドイツ代表の61試合で68得点。この70年と次の74年の2回のワールドカップで、通算14ゴールを挙げた。偉大なペレでさえ4大会出場して12得点だから、ゲルト・ミュラーの得点能力の素晴らしさは、この数字でも明らかだ。彼のゴールは、90パーセントはペナルティー・エリアの、それもゴールエリアに近いところからのシュートやヘディングだった。彼のパスを受けるための動き、シュートに入る体勢、相手とボールとのかかわりの中での彼のリアクションは格別なもので、それはオートマティックとも言える。それを自ら身に付けてゴールを量産した。
 ついでながら、得点の80パーセントはペナルティー・エリア内のシュート(ヘディングも含めて)から決まることが統計で出ている。
 ところがシュートの練習を見ると、たいていエリアの外に誰かが立ってボールを集め、誰かが出すパスをシュートする形が多い。それもペナルティー・エリアの外のだいたい20メートルの距離で蹴っている。長いシュートは大切な武器に違いないが、エリア内での確率が高いのに、こういう練習が多いのは不思議だね」
 
 
得点することがサッカーの美 
 
――ゲルト・ミュラーの得点能力も、反復練習によって作られた?

「才能ある者がトレーニングをし、自分のプレーをオートマティックにできるようにしていくことが大切だ」

――彼は決して美しいとか、スキルフルだというふうには見えなかったがゴール前での能力は抜群だった。

「多くのコーチは技術の高い、美しいプレーをする、パスワークの素晴らしいチームを作ろうと夢を見るものだ。
 スキルは大切に違いない。多分、サッカーでは最も重要なものの一つだろう。
 しかし、あまりにもスキルにこだわると現実的でなくなる。サッカーで現実的というのは得点をすること(失点を防ぐこと)。そこを考えなくてはならない。
 高い技術を駆使して、チーム全体に見事なハーモニーのある美しいサッカーをしよう。そういうチームを作りたいという考えもある。しかし私に言わせれば、サッカーでは効果的(エフェクティブ)ということが大切。効果的というのは点を取ることであり、それこそ、サッカーの美しさなのだ。なぜなら、サッカーは相手よりもより多く得点することで勝つのだから」
 
――より多く得点するためには、経験豊かで流れの読める選手が大切だというわけ。もちろんゲルト・ミュラーや釜本のようなストライカーもいればいいが…。

「昨夜の試合でも、カマモトがいれば、すっかり変わったものになっていたんじゃないか――と古い仲間が冗談めかして言っていた」

――釜本がいなくても“効果的”サッカーはできる?

「日本選手のスキルは、ずいぶん上達した。45年前に私が来日して日本代表を作り上げるときに、日本人の機敏さと、勤勉さを生かすためにスキルの上達が何よりと考えた。2002年でも、そのことが証明された。そして、いまは国際的な経験を積んだ選手もいる。
 中田英はシュートも上手だが、長いパスも素晴らしい。1954年にドイツがワールドカップに優勝したときに、フリッツ・バルターがいた。彼は若いときは得点王だったが、54年は中盤からパスを送ってドイツの攻撃を組み立て、チャンスを作った。中田英に後方のミッドフィルダーをさせたの? 彼はそういうところでも十分できるだろう。
 彼は深いポジションからでも、必要なら攻撃に出ていくだろう。彼はパスをした後も休まずに動くからね。
 ミュラーの話と同じように、中田英は自分の才能の上に試合経験を積み、プラクティスを繰り返し、パスを出した後の動きでも素早く的確にできる」
 
――彼のようなプレーヤーを仲間と、どう組み合わせるのかが大切なので、システムはそうした選手に合わせるのですね。


システムはスーツのようなもの

「あくまでも、選手の個々の力やプレーの性格が基本となる。
 1958年のブラジル。あの若きペレがいて、ワールドカップで初優勝したこのチームのフォーメーションは、4−2−4だと歴史の上でも言っている。その発言者はビセンテ・フィオラだが、私がこのときに彼から直接聞くと、フィオラは4−2−4じゃないと言った。
 フィオラによると、二人のミッドフィルダーとされていたジトとジジのうち、ジトは攻撃的で相手をマークするのは得意ではなかった。そこで、やや深い位置に置き、フォワードの左サイドのザガロを後退させた。彼は半分ハーフ(MF)で、半分フォワードという役あった。だからフォワードはガリンシャ、ペレ、ババの3人のときもあれば、ザガロが加わって4人になるときもあった。ミッドフィルダーは二人でなく3人のときが多かった。4人のディフェンダーのうちジャウマ・サントスも前に出たから、4−2−4というより、4−3−3、きわめて流動的なものだったと説明した。4−2−4と発言した彼の言葉なのだ」
 
――あくまでもプレーヤーが主で、システムが先にあるのではない。近頃は勉強家のコーチの中では理想的なチームを頭の中で考え、システムを先に考える人もいるようだが…。

「システムというのはスーツみたいなものだ。私に合うスーツでも、別の人には合わないことがある。テーラーが、その人に合わせてスーツを仕立てるように、選手たちに合わせてシステムを考えるのが当然だろう」
(選手の自主性を考え、選手同士の自主的な相互理解の上に、反復練習をする――というクラマーの考えが不思議にも、バーレーン戦の前のジーコのやり方と一致していたようだ)

 若いころからスカラー(学者)と呼ばれた彼の豊富な知識と、巧みな語りを引き出すには、いささか時間が少なかったが、いずれまたこのサッカーの碩学の言葉をお伝えする機会を楽しみに――。選手もコーチも、試合で学び、反復練習し、また次の試合でのいいプレーを心がけることが、チームを強くする唯一の道だというクラマーの言葉で、今回は終わらせていただく。
 
 
デットマール・クラマー
1925年4月4日、ドイツ・ドルトムント生まれ。FIFA専任コーチとして世界70カ国を巡回指導、東京、メキシコの両オリンピックへ臨む日本代表を指導して、東京ではベスト8、メキシコでは銅メダルに導き「日本サッカーの父」と呼ばれる。クラブの監督としてもバイエルン・ミュンヘンなどを率いた。


(週刊サッカーマガジン 2005年6月28日号)

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