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第3回 釜本邦茂(3)ボールを叩く力を基礎に着実に力を蓄えた大学時代

ゴルフのロングヒット、野球のホームラン

「小学生のソフトボールの試合で釜本はよくホームランを打った」とは、小・中・高大学で1年上のチームメートニ村昭雄氏(Jリーグ・マッチコミッショナー)の話。現役を引退したしばらく後に、伊豆の野球学校でスピーチしたとき、校長の江藤慎一(元・中日)に勧められ打席に立ってみた。
「何十年ぶりかのバッターボックスで初めは高校生の球の速さに驚いたが、2球ほど見送って目を慣らし、一振りするとボールは遥か彼方に飛んでいった」江藤校長は「釜本さんが野球をしておれば、王か長嶋クラスになっただろう」と言ったそうだ。
 大阪の読売ゴルフクラブでロングヒットして、前の組でプレーしていた中島常幸や新井規久雄を驚かせたこともあった。ボールを叩いて飛ばす、彼の才能を示すエピソードと言えるかもしれない。
 早大に入って1年目、1963年の関東大学リーグでは初戦の日大戦で4ゴールを挙げ、7試合で11ゴール。4年連続得点王のスタートを切ると共に早大の優勝に貢献した。64年1月の第43回天皇杯が王子公園グラウンドで開催されたとき、早大は1回戦で東洋工業、準決勝で関大、決勝で日立本社を破って優勝した。釜本はチームの7ゴールのうち3ゴール決めたが、私は東洋工業戦で相手の守備の柱であった小沢通宏をペナルティー・エリア外やや右寄りから縦に外し、ゴールラインからパスを通したプレーに目を見張った。あの位置で、溜めたスピードを爆発させたことが嬉しかった。「“東京”に間に合うネ」と岩谷俊夫と言い合った。


大学リーグと代表の掛け持ちで

 間に合いはしたが、64年の東京オリンピックでは、彼自身は1ゴールも奪えず、アルゼンチン戦での勝利に沸く周囲とは別に、フラストレーションの残る大会となった。
 それでも、大会準備の検見川での長期合宿による体力強化や夏のヨーロッパ遠征は、次のステップアップの為の大切な蓄積となった。大学3年、4年のときも、大学の練習やリーグ戦とは別に日本代表の海外遠征や国内での海外強豪チームとの交流試合に参加したのは、大きなプラスだった。65年春の東南アジア、夏のソ連・欧州、12月にはモスクワ・トルぺドを迎えての試合、66年は夏のソ連・西ドイツの転戦と合宿、冬にはバンコクでの第5回アジア大会あった。
 第5回アジア大会で空中戦の強さとシュート力は、日本代表の組織プレーとともに現地のメディアにもサッカー好きにも高い評価を受けた。ただし、まだ荒削りでミスもなくなってはいなかった。
 1次リーグのインド戦で左からのクロスを良い位置で受けながら、ボールタッチが大きく相手DFの前に転がしたこともあった。このトラップミスに相手も反応できず、足に当てて跳ね返ったボール釜本がシュートしてゴールしてしまう。ヨーロッパではこういうミスをすれば、得点機会はまずつぶされてしまうものだが…。
 このアジア大会直後の天皇杯で、釜本と森孝慈の早大が優勝する。彼には2度目で大学チームの最後の優勝となったが、この決勝の面白さは釜本がFWのトップでなく、MFでパスを送る役柄を務めたこと。足のケガもあったのだが、シュート練習で培われた彼の長いパスはきわめて有効で、細谷一郎や田辺睦男といった若いFWを走らせ、主力がアジア大会の疲れが抜けていない東洋工業を3−2で破った。


関西に戻ってヤンマーを強豪に

 天皇杯チャンピオン、代表のストライカー・釜本邦茂が次に選んだチームはヤンマーディーゼルだった。三菱重工の誘いも強かったが、ヤンマーの山岡浩二郎サッカー部部長や早大の先輩で関西の実力者、川本泰三(ベルリン・オリンピック代表)の熱心な勧め「関西に帰って、弱いチームを強くしては」に心が動いたのだった。
 サッカー人のなかには、ヤンマーのような弱いチームを一人で強くはできない、かえって彼が潰れてしまう――という声もあったが、実際はそうはならなかった。彼の強い個性がチームを引っ張り、会社も大補強し、67年のヤンマーは誕生3年目の日本リーグの目玉になった。
 サッカーはチームゲームだが、個の力もまた重要――と主張し、そのころの日本サッカーでは異質の考え(それは世界では極めて当然のことだが)を持っていた川本泰三は、釜本の入社のときから彼をドイツへ単身留学させ、海外での刺激を受けることでレベルアップさせようという案を持っていた。67年秋のメキシコ・オリンピック予選突破で、釜本は大活躍したが、翌年の1月に彼は誰もが経験していない単身留学で大変身することになる。


(週刊サッカーマガジン 2005年1月18日号)

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