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第4回 釜本邦茂(4)単身留学の驚くべき成果ゴール,前で見せる電光石化の動き


セルジオ越後も感心――胸トラップ

 テレビで独特の語りと辛口の評判で人気のあるセルジオ越後が、1972年にブラジルからやって来て驚いたことの一つに「釜本の胸トラップからのシュートのうまさ」があった。パルメイラスのプロ選手だった彼の目にも、技術レベルの低い日本のサッカーの中で釜本のこのプレーは衝撃的だったという。
 セルジオ越後が来日する4年前のメキシコ・オリンピック(68年10月10〜24日)で、釜本は6試合で7得点を挙げて銅メダルに貢献するとともに自らも得点王となったが、7得点の内訳は(1)右足シュート…4点(2)左足シュート…2点(3)ヘディング…1点となっている。ついでながらアシストも二つあって、ヘディングと右足のパスがそれぞれ一つずつ。その7得点のうち2得点が、左の杉山隆一からのパスを胸で処理してのシュートだった。


どんどん上達、されど不満も

 67年にヤンマーに入団した釜本に、幸いだったのは同年5月にネルソン吉村大志郎がブラジルからやって来たこと。それまでの日本人プレーヤーにはなかった、柔らかいボールタッチは魅力的な課題となった。ちょうど代表の南米遠征に参加して,ブラジルの選手たちの刺激を受けたこともあって、釜本はネコ(吉村のニックネーム)との練習で胸トラッピングをはじめとする彼のボールタッチに磨きを掛けた。この年の秋、メキシコ・オリンピックアジア予選で日本代表は4勝1分け。得失点で韓国を抑えて本大会出場を果たした。釜本はフィリピンから6得点したのをはじめ、台湾3点、レバノン1点、韓国1点と合計11得点して予選突破に貢献したが、最終戦の対ベトナム戦で得点できなかったのは自分自身も残念だった。連戦の疲れと緊張感で、スタンドから見てもプレーは硬く、遅く、相手のマークからの離れ方にも問題があった。


単身留学に周到な準備

 68年1月17日西ドイツ・アマチュア選抜が来日し、日本代表と対戦。メキシコ・オリンピックの欧州予選で敗退した西ドイツに日本は勝てなかった(0−1)。その翌日、釜本はドイツ留学に出発。日本協会やクラマーの計らいで、ザールラント州協会の主任コーチ、ユップ・デアバルに託すことになっていた。同州協会のヘルマン・ノイベルガー会長はのちに西ドイツ協会会長になり、デアバルも同協会コーチになるのだが、ヤンマーの山岡浩二郎監督は西ドイツに出掛けて、ノイベルガーさんの了解を取り付け、宿舎の手配も済ませていた。 日本ではそれまで海外へ練習に出掛けるのはチームであって、一人で留学する例はなかったから、釜本にとってもサッカー界にとっても初体験だった。私はクラマーに「2ヶ月の単身留学で、果たしてトラッピングからターンして、シュートへ持っていく動作がスムーズになるのだろうか」と尋ねると、クラマーは「帰ってきた釜本を見てくれ。そうなっているよ」と自信ありげに答えた。彼はこの会話の前に、釜本が西ドイツ・アマチュア選抜を相手にヘディングではほとんど競り勝ったことをしきりに褒めたが、指導者としての独特の閃きで「伸びる時期はいま」と思ったのかもしれない。


ジョージ・ベストかハーストか

 この2ヶ月の留学、ザールラントの州の州都ザールブリュッケン市のスポーツシューレでの練習で、彼は驚くほどの変貌を遂げる。「ボールを止め、コントロールし、向きを変えてシュートするのに日本の選手は1、2、3というタイミングだが、ブラジルの選手は1(一運動)でやってしまう」。クラマーが常に要求していた動作の速さがこれまでとはまったく違っていた。68年4月14日のリーグ開幕戦(名古屋相互銀行戦)で釜本は相手のゴールを背にしてパスを受け、反転して20メートル強のシュートを決めた。その振り向きざまにシュート体勢へ入る速さは、まさに電光石火といえた。リーグに入る前に日本代表は、3月26日から4月7日までメキシコ、オーストラリア、香港を転戦した。メキシコ五輪代表との試合は0−4で高地対策の必要性を嫌というほど知ったが、オーストラリアの3試合では好プレーを演じた。同国のアンドレ・ディットレ記者はサッカーマガンジン誌(月刊)に「アジアにジョージ・ベストやハースト(66年ワールドカップ決勝ハットトリック)に比べられるストライカーがいる」と寄稿してきた。釜本の急成長は5月のアーセナル戦や日本リーグ前期のプレーで証明される。三菱と日本代表のGK横山謙三は西京極での試合で、後方からのロブをダイビングヘッドした釜本にゴールを奪われ、「ここまできたか」と舌を巻いた。夏のヨーロッパ遠征を終え、日本代表のコンセオプトは「しっかり守って、カウンター攻撃。釜本に点を取らせて勝つ」と固まり、銅メダルにつながった。


(週刊サッカーマガジン 2005年1月25日号)

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