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第5回 釜本邦茂(5)相手の脅威となった右足の振りの速さが左の進歩と成功を生む

 大久保のデビュー戦は見ものだった。面白かったのは、彼の速さと自身あり気なキープと仕掛けが、相手を警戒させ、たじろがせたこと。そしてそれが相手の寄せを遅らせ、余裕を持って、1点目のゴールにつながるクロスを蹴ることになったことだ。連載中の釜本邦茂のプレーにも通じるところがある。


生死を分ける剣の速さ

 私の少年期の旧制中学では剣道が正課だった。2年生のときには授業の1本勝負で9人抜きしたことがあり、大学でのクラス対抗でも、初段の相手に勝ったこともあって、我流ながら多少の自信はあったが、それを打ち砕かれたことがある。軍隊でのことで相手は武道専門学校(略称・武専)の5段だから、もともと、私が敵うハズはないのだが、立ち合ってしばらくののち、彼が大上段から打ち込んできたとき、“しめた”と“出小手(でこて)”を打ったつもりなのに振り下ろす相手の竹刀は、はるかに速い動きで、私の頭を捕らえていた。武専出のプロとアマの違いだが、この速さの差が勝負を決め、生死を分けるのだと思った。
 ボールを蹴る、止めるといった基礎技術を高い精度で身につけた釜本だが、これらのテクニックや、鍛え上げられた体といったストライカーとしての諸条件のなかで、国際的に最も優れていたのはキック(シュート)の確かさだろう。対戦した相手に最も脅威を与えた一つに、右足の振りの速さがあった。


釜本・小城の一騎打ち

 当時の日本の代表的なDFであり、また東洋工業の攻撃の起点でもあった小城得達(おぎ・ありたつ)がJSLで釜本のマークに専念した試合があった。
 結果はヤンマーも点を取れず東洋工も有効な攻撃ができずに0−0で引き分けたが、二人の対決は実に見応えがあった。試合後の小城の言葉は「無失点でホッとした。しかし1本打たれた。彼がいつものフェイントから右足でシュートしたとき、こちらも、その手順を読んで足を出して、当てて防いだつもりだった。一瞬ゾッとした」同じ東洋工のDFで、釜本とは早大でチームメートの大野毅(おおの・たけし)は外国のトッププロ、未知の相手とも対戦した。上手で強いプレーヤーもいたが、彼らよりも釜本の方が嫌だった。彼のことはよく知っている。知っていてもやられるのだから―」と言っていた。予知していてもそれより早い右足の振りを防ぐために、相手がそこに神経を集中する。そこで釜本の左足のシュートが生きてくる。JSLの通算得点は202、その記念すべき1981年11月1日の“200ゴール”は左足だったし、74年の100ゴール(109試合)はスライディングしての左足のトウキックだった。右足のインステップで強く、正確に目標に向かってボールを飛ばせる型を作り、それも外国のプロも驚く、振りの速さで蹴ることを基礎に釜本のゴールを決める為のリハビリテーションは増えていった。自分のシュート力(足と頭の)を生かすために、どのスペースでフィニッシュするかをつかみ、そのための突破力、そのためのパスのとり方や、ボールを受けてのシュートへの入り方を若い時期につかみ、1968年のメキシコ・オリンピックでの成功となる。


アフターメキシコの苦境と回復

 24歳の洋々たる未来は、翌年の病(ウイルス性肝炎)のためにストップした。オリンピック銅メダルチームを70年メキシコ・ワールドカップのひのき舞台で戦わせようとしたクラマーと、その弟子たちの目論見も果たせなかった。しかし彼は病を克服し、3年掛かりでコンディションを回復して74年、30歳になって第2の最盛期を迎える。この回復期は最もつらい時期だったろう。弱った体はケガをしやすい。ケガしても、チームの主砲として休めない。完治しないままプレーしてまたケガをする。72年秋から1年少々の間に、私が知るだけでも7回のケガがあった。性急なメディアの間で「引退論」が出始めた。それを克服しての30歳の熟成されたプレーは、メキシコの仲間が去ったあとも続いた。釜本を語るのにこの後半部分は欠かせないが、今度の連載は成長期が主になった。還暦を越えたこの人の若いころを思い出し、そのイメージいまの若手ストライカーと重ね合わせてみたいと考えたからでもある。30歳代の釜本のプレーについては、80年のワシントン・ディプロマッツ(米国)とともに来日したヨハン・クライフが日本代表の強化策を尋ねられ「釜本を復帰させれば―」と答えたことを紹介しておきたい。なお、得意芸の一つ“消える”プレーについては、次号から予定している川本泰三さんのところで触れることにしたい。


(週刊サッカーマガジン 2005年2月1日号)

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