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第6回 川本泰三(1)シュートの名人は消える

メキシコ得点王を啓発

 「“消えろ”とだけ言われた。言葉の説明もなっかたから、初めは何のことかまったく分からなかった」
 1968年メキシコ・オリンピックの得点王となり、日本代表のエースストライカーと、すべての人に認められるようになっていた釜本邦茂は、しばらく、この「消えろ」に悩むことになる。それは“メキシコ”の翌年に肝炎で崩した体調が回復に向かっていた70年代初めのこと。
 得点王を悩ます命題を出したのが川本泰三さん(故・1914−1985年)だった。1936年のベルリン・オリンピックで、対スウェーデン逆転勝利の口火となるゴールを決めた川本さんは、日本選手のオリンピック得点第1号であるだけでなく、第二次世界大戦後、1954年、40歳で日本代表として活躍、シュートのうまさで「名人」と言われた。
 近ごろは、テレビで解説者たちが「○○選手は、いったん相手の視野から消えて、ゴール前へいい出方をしましたね」と言ったりする。
 常に相手にマークされているFWが見方からのパスに合わせてシュート位置に入るのに、ずーっとマークされたままでは、折角の位置に入っても妨害されていいシュートが出来ない場合が多い。そこで相手DFのマークを外すために、「消えて」から出てくることが大切となる。
 こういうふうに説明すれば、言葉の上では、理解できるだろうが、川本さんは「ゴール前」とも、「相手のマーク」とも言わずに、ただ「消えろ」と言うだけだったから、メキシコの得点王は、まず言葉の意味から考えなければならなかった。
「釜本に“消えろ”と言っておいた」と「名人」に聞かされた私は、彼がピッチの上でどのように解決してゆくのかを眺めたものだった。
 ある試合のあとで、「きょうはずいぶん引いていたが…」と言う私に、「ただ下がるだけではダメですね」。「下がっても、始めからしまいまで見られているからね」といった会話を釜本と交わしたこともある。理解の助けになる言葉も出さず、ただ、自分でつかんでくれるのを私たちは待っていた。さんざん悩んでいた釜本だが、あるときひらめく。「そういえば、メキシコ・オリンピックのフランス戦の同点ゴールは、いったん右へ開いてから、戻って杉山さんのパスを受けてシュートした。あのときに消えて出てきたんだ」―――と。
 気づかずに成功した動きを、意図的に取り入れる。自らの工夫でつかんだものは強い。自分の“消えて出てくる”やり方を身に付けることで、釜本のゴール量産は続いた。日本サッカーリーグの200ゴールも、引退試合のゴールも“消える”ことから生まれている。


日本的用語の誕生は70年前

 70年ワールドカップの得点王で、74年大会優勝の西ドイツ代表ストライカー、ゲルト・ミュラーもこの動きは上手だった。イングランドのガリー・リネカー(86年得点王)はこれが十八番だったし、62年大会に活躍したソ連のバチン・ノバイフも“消える名人”だった。
 ただし、外国では“消える”という言い方があるのかどうか――、いささか不勉強ではあるが、まだ見つからない。マーティン・ピータース(66年ワールドカップ・イングランド代表)などはゴースト(幽霊)と言われていたから、不思議な現れ方をするプレーヤーをこう呼ぶのかもしれない。
“消える”という言い方は川本さんが言いだしたものだろう。この人より2歳若い高橋英辰さん(1916−2000年)が昭和11年ごろ、高等学院(予科)から大学へ進んだとき、FWであったロックさん(高橋のニックネーム)に“名人”はやはり「消えろ」と要求した。「しばらく意味がわからなかったが、親切な加茂さん(ベルリン・オリンピックで活躍した加茂兄弟の兄・健さん)が相手の視野から消えることだと注釈を付けてくれた」とはロクさんから聞いた話である。
 日本の戦術史では、CF(センターフォワード)に専門のマーク役が付くのはベルリン・オリンピックで3FBを取り入れたときからとなっているが、早大の川本選手は、どんどんゴールを奪うので、関東大学リーグでは専門のマーク役を各チームとも付けていた。「慶応のKは、あまりにしつこいので、タッチラインの外へ出たときもついてきた」というエピソードもあったほどだ。そういうストッパーのマークをかいくぐりゴールするため、“消える”をあみ出したのだった。
 サッカー論議を楽しむということからゆけば、“消える”をつかむためのそれぞれの選手の工夫はまことに面白いのだが、それは別の機会に譲り、70年前、サッカーがまだ盛んではないときに、すでにゴールを奪うための最も重要な動きをつかんでいたプレーヤーがいたことを、まず紹介することで、“シュートの名人”への回想の序章にしたい。


(週刊サッカーマガジン 2005年2月8日号)

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