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第7回 川本泰三(2)ボール扱いが始めで、ボール扱いがすべて

 牛木素吉郎さんと、「ビバ!サッカー研究会」の人たちのおかげで、第3回日本視覚障害者サッカー選手権大会(1月22日、23日、神戸)の一部を見て、関係者の話を聞くことができた。催しの紹介は牛木さんにお任せするとして、ずいぶん勉強になったことをお伝えしたい。大会は2002から始まり、神戸ウイングスタジアムのフットサルコートでは、昨年の第2回に続いての開催だった。ブラインド・サッカーに必要なコートを囲むフェンスを同スタジアムの管理責任者・飛岡博昭さんが用意してくれるのが有難い、とは主催者の話だが、屋根付きのビッグスタジアムの経営の中に、こういうささやかで心温まる催しが組み込まれいるのは神戸らしく、うれしことだ。
 うれしいといえば、「ビバ!サッカー研究会」の仲間の中にベルリン・オリンピックについて資料を集めているグループがあって、写真をはじめ大量のコピーを見せてもらった。若い人たちにとっては、41年前の東京オリンピックも74年前のベルリンも、ともに歴史であることに違いはない。先入観を持たないこうした人たちが、サッカーの歴史の掘り起こしを進めてくれれば、日本サッカーも厚みを増すことになるだろう。


ネコがじゃれる柔らかさ

 さて、川本泰三さんのこと――。
 メキシコ・オリンピック得点王・釜本邦茂にストライカーとしてアドバイスやヒントを出していた――とういと、どのようなプレーヤーだったのかと誰しもが思うだろう。
「ネコがボールにじゃれるのをよく見ればいい。」、「学校へ通う電車の中でも、常に足首をまわせ」、「一日に左、右百回ずつまわせ、と言っても実行したやつは少ない」
 早稲田を卒業するころ、協会の機関紙に掲載していた随想でこう言っていた。私との何度も繰り返したサッカー論でも、まず第一がボールの扱いだった。
 大学に入ってゴールゲッター(ストライカー)の素質を開化させたが、少年期はボールと遊ぶのがもっぱらであった。そのボール扱いはネコがボールにじゃれつくのにも似た柔らかさがあった。それはひとつに天性の、あるいは後に自らの練習でさらに強化された――足首の柔らかさと強さがあった。ボールを止めるのを苦にしたことがないといううまさが、試合での自由な発想につながったと思う。
 大正3年(1914年)1月17日生まれのこの人より10歳若い私は、最盛期のプレーを見たのは一度だけ。昭和15年(1940年)の東亜大会だった。二宮洋をCFに、川本泰三インナー(MF)とした対フィリピン戦でのらりくらりといったキープでボールを奪われない不思議なドリブルを見た。
 ベルリンで一皮向けたこのころは、仕事の関係で大阪へ戻り、東西対抗の西軍に入ると、それまでの東軍優位は消え、西軍が勝つ。すると、川本は新聞の寄稿に「川本一人が移っただけで西軍が勝ったというのでは日本サッカーもたいしたことはない」と書いてしまう。
 まことにその通りではあるが、自らズバリと言うところが川本泰三らしい。
 足首うんぬんは、私の先輩のDFたちが東西対抗でこの人と対戦したときの感想にもあった。「タックルの間合いに入ってバッシッといったつもりが、ボールを一つずらされ、こちらの足に当たったあと、相手がそれを取って、こちらの足の上を越えていった」――というのもあれば、「大きなジグザグのドリブルに迷わされた」というのもあった。


攻撃の起点でフィニッシャー

 ベルリン・オリンピックでの奇跡の逆転劇は、当時のメンバー一人ひとりの、それこそ死力を尽くした戦いの勝利であり、GK佐野理平の超ファインセーブの連続や、優勝候補と言われたスウェーデンが2−0のリードで油断し日本の反撃に焦ってしまった――といったさまざまな要因が重なっている。ただし、3点を奪うということは、3度ゴールにボールを入れることであり、3度もまぐれでシュートを決めることはできまい。そこに、きちんとした攻撃の組み立てがあり、フィニッシュがあった。
 このときのコーチであり、当時は日本の技術の中心であり竹腰重丸さんは、「川本がキープすることで、左の加茂健や金容植、あるいはディフェンス・ラインまで下がっていた右サイドの右近ののフォローの間を稼げた」と言っている。ストライカーでゲームメーカーでもあった川本泰三のプレーがこの言葉によく表れていると思う。
 シベリアから帰還した次の年、「出身学校を問わず、高いレベルのサッカーの試合をする」ことを目的に自らが中心となって結成した大阪クラブで、3年連続して天王杯のランナーズアップ(準優勝)となったが、昭和26年の仙台の大会でこんなことがあった。
 準々決勝の試合で、私の兄・太郎がドリブルして川本さんを見ると、目が合った。パスを出そうとすると、受取るという顔ではなく、そのままタッチラインの方へ走っていった。パスを拒否された太郎は、もう一度ボールを持ち直して(当然、相手はついてきている)、別のプレーをした。
 太郎はこのとき、パスを出す者は、ときに受け手の条件のために無理をする必要があると悟るが、アイコンタクトでの拒否は、自由なフットボーラー川本泰三らしいエピソードである。


(週刊サッカーマガジン 2005年2月15日号)

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