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第8回 川本泰三(3)ボールを上から叩くシュートとディープ・センターフォワード

 少年のころ、小さなゴムのボールを足で扱う面白さに魅かれ、大学ではチーム練習とともに、一人でドリブルし、シュートする“個人練習”を楽しんだ。早稲田の伝説となった「弁当を持っての東伏見通い」を繰り返しているうち、抜いて出てシュートに入る自分のイマジネーションで蹴っているシュートが、なぜバーを越えるのかと考える。
 突き詰めた末に思う。「ボールに下から力を加えるから、ボールは上がるのだ」と――。
 ならばシュートを“上げない”ためにはどうすればいいのか。
「下から力を――ではなく、上から力を――、つまり、ボールを上から叩けばよい」
 自問、自答から川本泰三のボールを上からたたくシュートが生まれる。
 この上からインステップでたたくという感じを自分でつかみ、繰り返すことで、低い弾道のシュートがゴールのすみへ入ってゆくようになる。


低い弾道の五輪初ゴール

“ベルリンの奇跡”を演じるきっかけとなる0−2からの日本の1点目を回想して「左の加茂正五から中へ低いパスがきた。ボクの後ろを通ったのを、フォローしてきた右近徳太郎がタテに送ってよこした。それを右足のダイレクトでシュートした。蹴った瞬間に手応えを感じた。それほど速くはないが、ボールは低くコントロールされ、右ポストの内側へすっと伸びていった。早稲田へ入った年、関東大学リーグの初戦で自分が決めたゴールとまったく同じ形だった」と語っている。
 チームメートの得意の型のシュートで1−2になったとき、DFの堀江忠男さんは「ほかの人はどう感じていたかはともかく、私は、この川本の1点で、いけるかもしれないと望みを持った」と言う。
 22歳で対スウェーデン戦逆転勝ちというオリンピックでの奇跡のヒーローの一人となった川本さんは、帰国後、早大の関東リーグ4連覇を締めくくり、東西大学一位対抗の勝利などでもゴールを重ねた。
 このころからCF(センターフォワード)であっても、前線に残る従来のものではなく、前線から引き気味にいて、ボールをキープして攻撃の起点になり、仲間とのフドリブルとパスの組み合わせでシュートチャンスを作り、自らフィニッシュに入ってゆくようになった。
 1953年、イングランドFA創立90周年の記念試合に招かれたヘルシンキ・オリンピック・チャンピオンのハンガリーが、6−3でイングランドを破ったとき、多くのマジャール人の高い技術とともに、CFが後方に位置するM型FWについての議論が高まったが、それよりも十数年前の第二次世界大戦後の日本にディープ・センターフォワードがあり、その軸となったのが、この人、川本泰三であった。


「酷使された」と、加茂正五

 後方からフィニッシュの地域に入ってゆくときに、例の“消える”が入って、そのシュート力の効果を上げたのだが、それだけに周囲の協力、理解が必要だった。
 この人の長男・章夫(早大昭和51年卒業)が入部の歓迎会のとき、一人の先輩が「キミのオヤジさんにはずいぶん、こき使われたヨ」と言った。“ベルリン”で「カモ・カモ・フリューゲルス(加茂兄弟の翼=両サイド)」と称賛された加茂健、正五兄弟の正五さんだった。
 当時のFWプレーヤーの中で体格に恵まれ、素質ナンバーワンと言われたこの左ウイングはストライカー・川本に「左サイドを突破して、中へ持ち込み、ゴールラインから中へパスをくれ」、「それも、高く浮かすのではなく、低い、ヒザ下くらいのボールをよこせ」と要求されていた。
 ゴロではなく、低く浮かせというのはDFのスライディングに妨げられることのないようにとの注文、そして「そしたら、おれが入れる(シュートを決める)」と言うのである。
 オレが入れるというところが、いかにも川本さんらしい言い方だ。
 何かのときに、本人にこの話を確かめたら、「うん、そういうふうに注文したら、加茂正五は自分で工夫して、ちゃんとやったヨ」と。
「こういうふうにボールをもってこい、そしてら、オレが入れたる(入れてやる)」はシベリアから帰って、8年のブランクの後に35歳からプレーを再開したときも同様、前回に触れた賀川太郎とのアイコンタクトのパスの拒否もその一つだった。
 その川本さんの考えの根底には、サッカーのチームワークというのは、それぞれのプレーヤーの、最もいいプレーを組み合わせることにある――があった。
 このシベリア抑留以降のプレーや、技術の先駆者の一人としての川本さん、戦争中のブランクによる技術低下を引き上げようとした指導者としての泰三さん、自分の考えを伝えようとした多くの名言、卓説や協会人としての仕事については別の機会をもつとして、歴史的ストライカーの若き選手時代はここでしばらくおくことにしたい。


(週刊サッカーマガジン 2005年2月22日号)

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