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第9回 セルジオ越後(1)ボールテクニックの指導に新機軸

スリル満点の2月9日、好試合

 いい試合だった。日本3−0という気楽な予想もあった。4分に小笠原のFKが決まったときには、楽観した人もあったに違いない。その1分後の玉田のシュートがニアに入っていれば、さらにその希望がふくらんだかもしれない。しかし、そうはゆかなかった。
 旧制中学校の全国大会で三度朝鮮半島の代表と試合をした神戸一中にいた私は、韓国、北朝鮮の選手たちにも親近感とともに強い関心を持ち続けてきたから、もし2−0になっても安心はしなかっただろう。
 彼らの反発力が強くて、日本チームを相手に簡単に引き下がりはしないからである。
 あの釜本邦茂や杉山隆一がいたメキシコ・オリンピック代表も67年の予選で、韓国を相手に前半2−0とリードしながら、後半に相手のロングボールと競り合いのあとのセカンドボールを拾う運動量に2−2とされた。3−3で引き分けた試合を、いまなお忘れはしない。
 朝鮮半島のサッカーの良さは、日本と同じように豊富な運動量にある。ただし、同じランプレーでも、日本は、まずボールをつなごうとするのに対して、彼らは、時によって突っかけ、1対1を仕掛けて、そこから次の変化を生もうとする姿勢がある。 
 1−0の優位に立った日本がボールをキープして、
左右からクロスを繰り返し(それも前より良くなったが)揺さぶって、スペースを見つけようとするのはいいが、誰かが仕掛けてゴールラインまで深く侵入しようとする意図がすくなかったのが残念――。後半に中村と高原が登場して、その動きが活発になり、相手DFのすき間が広がって、劇的な大黒の反転シュートにつながった。


日本と北朝鮮の技術の差

 韓国や北朝鮮の話になると、つい身が入って長くなってしまう。
 メモリーでの連載は、今回からテレビ・コメンテーター、独特の語り口で人気あるブラジル人、セルジオ越後――。
 埼玉の北朝鮮戦もこの人が解説していたはず。残念ながら当方はスタジアムの記者席にいたために、まだ耳にしていないが、実はこの試合の内容も、セルジオ越後のこれまでの仕事とは無縁ではない。
 同点にされてから日本側にゴール奪取の気迫がみなぎり、中村たちが加わってからのパス交換、ドリブル、そしてシュートと、攻撃が繰り返された。そのときの選手たちの技術の高さに(シュートは別として)、私はあらためてセルジオ越後の功績を思ったものだ。
 この連載での前回で、1930年代、70年も前の日本に、ボールと遊び、ボールを扱うことにひたすら打ち込んだ、川本泰三というベルリン・オリンピック(1936年)のCF(センターフォワード)との思い出を述べた。
 戦前から戦後のある時期にかけて、日本のスポーツ、特にチーム競技では「学校のために」、「国のために」といった考えが強く、ボールと遊ぶことに熱中するといった考えは少なかった。川本泰三という人はその“ボール遊び”に熱中することで高い技能を身に付けた当時としては珍しい選手だった。惜しいことに、川本グループが培った戦前戦中のテクニックと、遊びから入る――という考えは、一般には理解されずに、その技術伝承もまだ希薄だった。


巡回指導でボールと遊ぶ楽しさを

 遊びの中からボールテクニックを身に付けることを、日本全国を巡回して指導し、自身がブラジルで少年期に身に付けたプレーを実際にやってみせ、一つの技を覚えれば、次はこれを身に付けようと追い求めることの面白さを知らせたのがセルジオ越後だった。
 1978年から、この人が始めた「さわやかサッカー教室」は1997年までの20年間に延べ986回、集まった子供たちは41万3594人に及ぶ。中から高校選手権で活躍する子もJリーグでプレーする者も数多く現れたが、各地の指導者たちにボール扱いの大切さとその上達を見守る楽しさを知らせたことはとても大きい。
 1945年7月28日生まれ、ことしの誕生日で還暦を迎えるセルジオ越後だが、初めて彼と会ったのは1975年だったか――。自分はポルトガル語だったが、両親の会話は日本語だったから耳になじんでいて、1972年に日本サッカーリーグの藤和不動産でプレーするため、来日してから、日本語の上達も早かったという。わずかの滞日の間に日本人気質と、その気質からくる日本サッカーの“世界の非常識ぶり”を語るまでになった彼の賢明さに感心したものだ。
 すでに、彼のプレーは何度か見ていた。来日した日系人プレーヤーの中で名門コリンチャンスとプロ契約をしていた彼の技術は別格で、長いパスとボールの持ち方に特徴があり、タイミングをずらしてのシュートもやってのけた。
 彼との何度かのミーティングは、自身の少年期やブラジルのプロの世界、そして日本のサッカーを良くするためのアイデアなどなど、尽きることのない話に飽きることはなかった。
 

(週刊サッカーマガジン 2005年3月1日号)

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