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第10回 セルジオ越後(2)リベリーノと競ったブラジルの技術の高さをJSLで披露

 セルジオ越後は1945年(昭和20年)7月28日生まれだから、ことしの誕生日で満60歳。釜本邦茂が1944年生まれだから、ほぼメキシコ・オリンピック世代で、彼よりも早く1967年に来日したネルソン吉村大志郎(故人)の2歳年長となる。「小学生のころからサッカーをしていたが、たこ揚げ、コマ回し、ビー玉などにも熱中していた」と言う彼が13歳のとき、あの1958年ワールドカップでのブラジル代表の優勝があり、国中あげての喜びとなった。少年たちのサッカー熱も高まり、一番の遊びとなる。
 子供たちの間で上手な者は有名クラブのジュニアに進む。1964年、プロエンサ高校に在学中、サンパウロの超人気チーム、コリンチャンスに入る(69年にプロ契約)。そこで、のちにブラジル代表となるリベリーノ(1946年1月1日生まれ)と出会う。


ドゥンガの祖父も見ていた
 
 このころコリンチャンスは一軍が不振で、サポーターの関心はむしろ若手の二軍の試合に向けられ、越後やリベリーノたちのプレーを見るためにたくさんの観客が集まった。のちにJリーグ磐田にやってきたドゥンガ(94年、98年ワールドカップ・ブラジル代表主将)のお祖父さんも、そのころコリンチャンスの二軍に興味をもったひとりだという。
 そのころの彼のプレーを私は見ていない。しかし、日本サッカーリーグで彼が左タッチライン寄りから逆サイドへ右足でいいロングパスを送るので「あの型のパスは何歳くらいからできるようになったのか」と聞いたとき、「15か16歳ごろだったと思う」という答えが返ってきたから、キープができて、若いうちから長いパスもだせる、つまりパス能力で仲間から信頼されるプレーヤーだったと想像できた。
 ただし、親友であり、ライバルでもあったリベリーノとのポジション争いは荷が重いものになった。技術も高く、試合の流れを読む力もあったが、小柄ながら力強いプレーのできるリベリーノの方が有利だったのだろう。やがてリベリーノはブラジル代表にも入り、70年メキシコ・ワールドカップでの完熟のペレとともに3度目の優勝に貢献した。
 

藤和不動産の招きで日本へ

 コリンチャンスとの契約の切れた越後に日本の企業チームから誘いがかかる。
 東京オリンピックの翌年にスタートした企業チームによる全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)は、68年メキシコ・オリンピックの翌年に8チームでスタートし、ホーム・アンド・アウェー各1試合、1チームの試合数は15という小規模ながら、72年からは2部(10チーム)も生まれていた。その1部に72年に昇格した藤和不動産(現・湘南ベルマーレ)があった。広島出身の藤田一族の経営するこの建設会社は、同じ広島の東洋工業(現・サンフレッチェ広島)から下村幸男や石井義信を監督、コーチに迎えて強化を図っていた。不動産会社らしく栃木県那須の土地にグラウンドと合宿所を装備し、十分な練習量による実力アップを狙っていた。
 ヤンマーでのネルソン吉村、ジョージ小林といった日系ブラジル人の導入効果もあり、新興の藤和が有名クラブでプレーしたセルジオ越後に目をつけたのは当然といえた。


フェイクパスに仲間が戸惑う

 73年後期から藤和に加わったセルジオは5試合に出場したが、それほど目立った働きはなかった。28歳というプレーヤーとして最も充実する年齢であり、ボールを扱ううまさ、なめらかさ、そしてパスは正確だったが、仲間がそれを理解しなければチームワークは成り立たない。「顔を別の方向に向けてパスをだしたら、それでは受けられないから、出す方向に顔を向けてほしい」と言われた――と彼は驚いていた。ボール扱いを強調したデットマール・クラマーの指導法を徹底させようと、JFAはコーチング・コースを設け、組織的に有能な指導者を生み出し始めたそのころのトップリーグでも、そういうことを理解できないプレーヤーが少なくなかった。
 73年のJSLで藤和は三菱、日立、ヤンマーに次いで4位となったが、74年は再び8位(10チーム中)に後退する。しかし、私には、この年の彼のプレーが印象深かった。前期4節のヤンマー戦(大阪・長居)でペナルティー・エリア外左寄りから20メートル近い右足シュートを決めたことがあった。右足の振りをわずかに遅らせたことで、GK西片の構えが崩れた。シュートのボールそのものも、コントロールも見事だったが、チェックのタイミングをずらせたところに、このプレーヤーの本領を見る思いがした。
 何事にも早くなければ気のすまない日本では、サッカーでも早さは「善」で、遅いことは「悪」と見られている。しかし、川の流れにも緩急があるように、ものには両面があり、サッカーでも同じこと――と考える私には、セルジオのこの“タイミングをずらせたシュート”は「旱天の慈雨(かんてんのじう)」にも思えた。
 彼が永大に移り、そこから少年指導に移るときに賛成したのは、このプレーのできる彼に、急だけでなく暖もあることを教えてほしかったからだ。


(週刊サッカーマガジン 2005年3月15日号)

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