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第11回 セルジオ越後(3)遊びの中でヒントを出し、手本を示す日本の隅々まで広めたセルジオ流

 日本サッカーリーグ(JSL)の藤和で1972年から74年までプレーしたセルジオ越後は、75年から永大産業サッカー部のコーチとなった。
 永大は72年にサッカー部を創立、2年間でJSL1部入りを果たした。大阪に本社を置く建材、建設の会社で、チームの本拠地を山口県平生町の工場に置いて山口県リーグからスタートしたこと、71年に解散した名古屋相互銀行サッカー部から大久保賢が監督に、塩沢敏彦がコーチ、小崎実や竹下悦久らが戦列に加わったこともプラスになったが、平生町にグラウンドを整備し、十分な練習量を持ったことがスピード昇格につながった。JSL1部の1年目(74年)は前期9試合は5分け4敗だったのが、後期から3人のブラジル人、ジャイロ、ジャイール、アントニオが加わって4勝(1分け4敗)を挙げて注目された。
 セルジオの永大入りはトップチームの強化を助けることと、平生町の施設で少年サッカーの指導を行ない、この地域でレベルアップを図るとともに、企業と地域社会との交流深めるという狙いもあった。この時期として、いい着眼だったと言える。
 しかし、企業スポーツは会社の業績あってのこと――、75年JSLは5位を占めた永大だったが、76年7位のあと、77年シーズンを前に会社の業績悪化のため、サッカー部の廃棄を決定した。


コカコーラとの出会い

 セルジオ越後にとって、新しい職場は2年で終わった。
 せっかくなじんだ日本で、サッカーを続けられないのはいささかショックだったが、持ち前の粘りで道を切り開こうとした。永大のかつての上司も応援してくれた。
 少年期のブラジル、そこで彼は仲間や年長者とともに遊びながら、サッカーの技術を身に付けた。こんなフェイントができるか――と長年の仲間に言われ、やってみてできたときのうれしさ、今度は自分が開発して、これはどうだと見せる楽しさ――、そういうふうにして培った自分のテクニックやサッカーの楽しさを日本の子供たちに伝えたい――。
 彼は会う人ごとに説いた。その考えと人柄に賛同する企業が現れた。コカコーラのグループだった。
 コカコーラは米国の会社だが、早くからFIFA(国際サッカー連盟)に協力して、ワールドカップのスポンサーになっている。世界企業だが、日本での宣伝普及のひとつとして、全国巡回のサッカー教室を提案してきた。永大でプレーした平田生雄(ひらたいくお)も参画することになった。
 1978年4月5日に始まった「さわやかサッカー教室」は11月までの間に73回、3万6769人が参加するという大成功となった。
 日本サッカー協会公認のこのサッカー教室は、土、日曜日開催が原則だが、それまでにセルジオが独自に行なっていたサッカー教室との関係もあり、回数は予測より大幅に増えた。
 何よりの成功は参加者の誰もが、ボール扱いを楽しみ、満足したことだった。


ボールをどうして上げるのか

 日本でもすでに指導者の育成、研修が組織的に行なわれるようになっていた。「ボール扱いは、サッカーの最初のドアである」とクラマーの教えもあって、子供たちにボールテクニックの習熟は大切と考えられていたし、ボールリフティングなども教えられていた。
 しかし、セルジオの指導はまったく独自のものだった。ボールリフティングを始めるときに、手で持って形を示すだけでなく、まず地面にあるボールを足だけで上げられるかどうか――、(1)つま先を使って上げるのと(2)右足のアウトサイドですくい上げるものもあり、(3)両足ではさんで上げるものもある。(4)ころがってくるボールをヒザをついて太ももの上を滑らせて上げることもできる――というふうに、どうすればボールを上げられるかを、子供たちに工夫をさせ、そのヒントを出し、自分でやってみせる。
 一つのプレーにいくつものやり方があることを、手本を示しつつ語りかける。
 彼の指導力と人柄で「さわやか」サッカー教室は97年までの20年間に986回、41万3594人を集め「アクエリアス」と名を改めて98年以降も盛況を続けている。30年間に50万人を直接指導したセルジオの誇りは高校選手やJリーガーを生み出しただけではなく、社会の中堅で働く人の中にサッカーを好きになってもらったという思いである。偶然に会った人に「私もさわやか教室にゆきました。いまも参加証を持っています」と言われたときこそ、やってきて良かったと思うと言う。
 現在のセルジオはテレビの解説をはじめ、新聞、雑誌への寄稿などメディアでの評論活動が主になっている。その独特の語り口や警句の中に、彼のプレーヤー時代、巡回教室時代のバックボーンを見ながら、私は“還暦・セルジオ”の健在を眺めることになる。


(週刊サッカーマガジン 2005年3月22日号)

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