賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >イングランド・リーグ “北”優位が始まり、続く

イングランド・リーグ “北”優位が始まり、続く

 さて、1888〜89年シーズンに12チームによる2回戦総当たりで始まったリーグ。最初のリーグは、プレストン・ノースエンドが優勝した。彼らは1試合も負けることなく、勝点は40点(1試合の勝点は2だから、マキシマムは44点)という驚くべき高さだった。2位はアストン・ビラ(29)、3位はウォルバーハンプトン・ワンダラーズ(28)。
 この優勝チームは、同時にFAカップにも勝ち2冠となった。こちらの方も、失点なしという強さ。ベスト4はすべて北部のチームで“北”のクラブの実力の優位は、はっきりとあらわれた。

 リーグの人気が高まるにつれて、加盟チームがふえる。4年目には14チーム、5年目には16チームとなり、この1892〜93年シーズンからリーグに2部が設けられ、12クラブが参加した。
 1部リーグの拡大は1898〜99年には18チームに、1905〜6年には20チーム、1919〜20年には22チームとなってゆく(現在は20チーム)。2部リーグも2年目、つまり1894〜95年には16チーム、1898〜99年には18チーム、1905〜06年には、その時の1部と同じ20チームとし、1919〜20年にはやはり22チームとなる。
 いわば19世紀の末に、1部と2部をすでに18チームずつに形を整え、20世紀の初め、1905〜06年にそれぞれ20チームとしていたことになる。
 3部は、1920〜21年から南地区で始まり、1921〜22年には3部北地区も発足。この地域を統合して、3部と4部のランクを分けるのは1958〜59年シーズン。

 こんな経過を経て、今日の92チームによる1部〜4部までの組織になるのだが、1905年といえば明治38年、日本がロシアと大戦争し、スポーツでは、ようやく野球の早慶戦がおこなわれ、東京高等師範(いまの筑波大)から『フットボール』というサッカー指導書が刊行(明治36年)されたころ。オリンピックの初参加(1912年)までにまだ7年もあった、いわば日本のスポーツは初期というより、胎動期だったころ。
 そうした20世紀の初頭に、すでに堂々たる1、2部制のリーグを運営したイングランドの人たちには頭がさがる。もちろん、当時の英国の強大な国力や富の蓄積があったろうが、このことはサッカーという競技の大衆への浸透の早さを示すと同時に、関係者の先見性のあらわれといえる。
 そしてまた、なによりもリーグを提案し、実際に運営した人たちが「北」のクラブを主としたこと、リーグを提案したマクレガーの「Mc」のスペルからみて、彼がスコットランド人であることも予想できるわけだが、スコットランド人をふくむ、北部イングランドの工業地帯、生産地帯で、実際に仕事をしている人たちが、リーグにかかわっていたことが面白い。ロンドンのような政治の中心地、いわば官僚機構の中核から、リーグが始まったのでなく、生産地、工業地域から盛り上がったところに、イングランド・リーグの発展があったと思う。


(サッカーダイジェスト 1989年「蹴球その国・人・歩」)

↑ このページの先頭に戻る