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第12回 ヨハン・クライフ(1)スリムで、鋼のように強く、チームを意のままに動かし、観客をしびれさせた

アヤックス育ちの天才児

 ヘンドリック・ヨハネス・クライフを初めて見たのは、1974年ワールドカップ西ドイツ大会のときだった。
 47年4月25日生まれの彼はこのとき27歳、天性の才能に経験を加えて自信に満ちていた。
 彼の生い立ちはサッカーの成功物語の一つ。早いうちに父を失ったヨハンは母親がアムステルダムの名門クラブ、アヤックスで働いていたこともあって、幼くしてサッカーに親しみ、その上達ぶりは隣人たちの自慢のタネとなる。15歳でプロ契約、やせて、きゃしゃにみえる体つきだったが、リヌス・ミケルス監督はさすがにその才能を見抜いていた。
 17歳でアヤックスの一軍にデビューし、次のシーズンにはリーグ得点王(33ゴール)となった。CF(センターフォワード)のポジションながら9番ではなく14番を着け、後方に下がってボールを受け、タッチ際に開いてドリブルし――と広く大きく自在に動く「ロービングCF」として攻撃を組み立て、フィニッシュにかかわった。
 彼の成長とともにアヤックスはオランダ・リーグ優勝6回、カップ制覇4回、1971年から73年までヨーロッパ・チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)に3連勝した。
 1973年夏にスペインのバルセロナに移ったが、その高額移籍もまたヨーロッパで大きな話題になった。
 オランダ代表とヨハン・クライフを初めてじっくり見たのは74年6月15日、ナマではなくテレビだった。
 13日に西ドイツ大会の開幕戦、ブラジル(前回優勝)対ユーゴスラビアをフランクフルトで取材し、14日にベルリンで西ドイツ対チリを観戦、15日にシュツットガルトでポーランド対アルゼンチン戦――、その試合の3時間前に、ここのプレスルームで、ハノーファーでの中継を見たのだった。


新しいサッカーの旗手オランダ

『“それはまったく息を呑む”という感じだった。ブラジルの開幕戦は迫力はあったが、双方に切れ味はなく、西ドイツも動きが硬くて、“EURO72”で伝えられた流れるような大きな展開はどこかに消えていた。
 それに比べると、クライフとオランダは――ボールを奪い合い、前に送り、突っかけたと見ると、開き、また突っかける。
 1930年の優勝以来定評のあるウルグアイの守りは、オランダの攻めに崩され、圧倒され、押し込まれてしまう。
 それまでの2試合の物足らなさが一気に解消され、“これこそワールドカップ”というプレーに興奮して、つい動かした足が前の記者に当たったらしい。2度も振り返って注意されたほどだ。』
 74年ワールドカップの旅(サッカーマガジン連載)で、こう記している。
 この試合で、オランダの評判は一気に高まった。
 クラブチームの欧州3連覇の実績を持ちながら代表チームとなると、あまり評価されていなかったのが、メディアの大合唱によって、新しいサッカー“トータルフットボール”の担い手としてミケルスとクライフとオランダ代表は世界中にその名を知られるようになる。


決勝を前に“優勝”の声

 クライフをすぐ近くで見ることができたのは6月26日の2次リーグ第1戦、ゲルゼンキルヘンという鉱業の町、シャルケ04のホームタウンだった。試合前のウォームアップをスタジアムの外にあるグラウンドで行なっているのを見つけて、写真を撮りにいったのだが、彼の背の高いのにまず驚く。腰や太ももがしっかりしていたのには、あらためて感心した。スタンドから見ていると大男ぞろいのオランダの選手に中で、スラリとした印象が強く、それでいて、走り出したときのスピードや、ジャンプのときの鋼のような強さに目を見張ったのだが、そのバネは、軽く駆け足で通ってゆく姿にも見て取れたし、この試合でのクライフは自ら、アルゼンチンの裏へ走ってファンハネヘンからのパスを受けて1点目を決めたのをはじめ、3点目(レップのヘッド)のもととなるロングパスを送り、さらにチームの4点目(ファンハネヘンのシュートのリバウンド)も自分で締めくくった。長い髪をなびかせて疾走し、落差の大きい緩急の変化で相手を抜き去る彼に、満員の観衆のすべてが酔ったはずだ。
 西ドイツ大会は参加16チームを4組に分けて1次リーグ、各組上位2チームを再び2グループにして、2次リーグを行い、各組1位による決勝、2位による3位決定戦を行なった。1次リーグの3組で2勝1分けのオランダがこの2次リーグA組でもアルゼンチン、東ドイツ、ブラジルを破って3戦全勝で決勝に進み、1次リーグ1組で2勝1敗、2次リーグB組でユーゴ、スウェーデン、ポーランドを撃破した西ドイツと戦うことになる。
 大会が進んでいくうちに、オランダへの称賛はますます高まり、やがて優勝して当然という空気が流れ始めた。
 そう思いつつも私には大きな疑念もあった。


(週刊サッカーマガジン 2005年3月29日号)

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