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第13回 ヨハン・クライフ(2)30年前に現代サッカーの転向点を大舞台の決勝で演出

オランダか西ドイツか

 74年7月6日、決勝の日、私がペンションから会場へ向かうとき、宿のマダムがタクシーに乗ろうとする私に「今日はどちらが勝つと思うか」と聞いた。
 「ドイツだろう」と言うと、「カガワはドイツが勝つと言っているよ」と大声で叫び、急いで出てきたババリア服装のご主人は私の手を強く握ったものだ。
 オランダ強しの声が圧倒的ななかで、ミュンヘン市民、西ドイツのすべての人々は不安いっぱいでキックオフを待っていたのだった。
 オランダのダイナミックな攻撃に感嘆しながらも、必ずしもオレンジ軍団の優勢説に私が大きく傾かなかったのは、気がかりなところがあったからだ。
 ひとつは、オランダ代表はチャンスを作る回数の多いわりに点が入らないこと。右のシュルビア、左のクロルが相手の奥深くまで入ってクロスはもちろん、シュートまでもやってのけるDFの攻撃は、長い疾走をともなっての素晴らしい攻撃ショーだが、相手の守りを大きく崩してノーマークの場面ならともかく、DFが寄せてくるときに、そのシュートの正確度はどうなのか、決勝の相手西ドイツはタフさでもオランダに劣らないから、DFやMFのノーマークシュートの場面はこれほどまでには生まれないだろう。
 もう一つは、2次リーグから西ドイツの調子が上向きになったこと。しかもゲルト・ミュラーが本領のエリア内での強さを見せてゴールを取り始めている。
 トータルフットボール(ミケルスはプレッシング・フットボールと言っていたらしい)もいいが、ストライカー、ミュラーの相手の多いエリア内での職人芸はまた格別の趣きがある――と思っていた。


魅力いっぱいの決勝

 すでに何度も語られている通り(私も何回も書き記した)、この決勝戦は西ドイツの勝ちとなった。
 クライフのドリブルで得た開始早々のPKをニーケンスが決めて1−0と先行しながら、そのあと、強圧に出ない間にドイツが立ち直り、ヘルツェンバインのドリブル侵入で得たPKで同点とし、ミュラーのエリア内での反転シュートで2−1とした。ドイツの反撃の前にオランダに超ビッグチャンスがあったが、レップのシュートをマイヤーが防いで突き放す機会を逃した。大会後このときのレップの失敗を大きく取り上げる記事もあったが、私は、このときのベッケンバウアーとマイヤーの2人の連係にディフェンス・ラインの神髄をみた気がした。
 クライフ、レップとベッケンバウアー、マイヤーのこのシーンは別の機会に譲るが、後半は焦りも手伝ってオレンジは広いスペースを使っての展開は少なく、ゴール前へのボールを急ぎ、いささか力攻めになったのは惜しいことだった。
 英国のベテラン記者、グランビルなどは、あの先制PKがあったことがオランダを狂わせた――と言っているが、いずれにしても劇的で「全員攻撃、全員守備、コンパクト、飛び出し」などという現代のサッカーへの転向点となる試合をワールドカップ決勝という大舞台で、30年も前に見ることができたのは、私にとってまことに感謝すべきことだった。
 その中心人物の一人、ヨハン・クライフは、しばらくスペイン、さらに米国(北米サッカーリーグ=NASL)、最後にオランダでプレーして、さらに監督としてスペインに戻って古巣バルセロナに“現代”サッカーを植え付け、スペイン・リーグの活性化のもとをつくる。


80年に4時間のインタビュー

 極東の日本へクライフがやってきたのは80年NASLのワシントン・ディプロマッツの選手としてが初。そしてバルセロナの監督として92年の第3回トヨタカップで来日し、サンパウロFCとの好試合を演じた。
 幸いなことにディプロマッツと来日したクライフとは、神戸でインタビューの時間を持つことができた。
 この年の欧州選手権の帰りにワシントンに寄ってディプロマッツの試合を取材した。ワールドカップという大舞台でなく、ややランク下の選手もいるところでのプレーで、彼の新発見もあった。日本でのディプロマッツの試合で、彼は悠々とテクニックはここまで高められることを示し、試合の流れを読み、パスをどのように選択するかをピッチで見せ、記者会見でも説明した。当時の記者たちには、生きた教科書でもあっただろう。
 義父をマネージャーにしての彼の契約などの態度から、かつてインタビューにもお金を取るなどという話もあったが、私との場合は一切そういうことはなく、きわめて紳士的に、また真面目にフランクに話をした。オランダ語の通訳にも同席してもらったが、話が弾み始めると英語のやりとりとなり、どんどん展開した。
 翌日、彼のマネージャーが「クライフに4時間もインタビューしたって、大変なことだ」と言っていたが、まことに忘れることのできない楽しい4時間だった。
 次回はその話から――。


(週刊サッカーマガジン 2005年4月5日号) 

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