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第14回 ヨハン・クライフ(3)互いに話し合い互いにプレーを知っていた74年のオランダ

 80年11月13日に神戸オリエンタルホテルでのクライフのインタビュー記事は当時、サッカーマガジンの編集長であった大住良之さんの企画で実現し、81年1月10日号(そのころは月2回刊だった)の本誌に掲載されている。彼の言葉のニュアンスを失わないように忠実に記したつもりで、今回、その録音テープを探したが、まだ見つからない(釜本の数回、杉山隆一、そしてケビン・キーガンなどいろいろあったのに――)。もし出てくれば新たに書き加えたいもの。
 技術論も楽しいが、それ以外でも面白かったものは――。


野球ではキャッチャーだった

 少年期にクライフはサッカーに夢中だったのは言うまでもない。多くの優れた選手がそうであるように、16歳のころにはすでに正確なクロスパスを出せるようになっていた。オランダは欧州でも野球が比較的普及しているところで、クライフも少年期にはよく遊んだ。ポジションは捕手。チーム全体の守りの舵取りをするのがこのポジションで、彼はチーム全体に目を配ることをおぼえた――と言う。そういう性格だからキャッチャーをしたのか、キャッチャーでそれが培われたのかはともかく、捕手といえば昨年のプロ野球騒動で、選手会をまとめてストライキまで持ち込んだ古田敦也(ヤクルト)選手が頭に浮かぶ。
 世界のサッカーに新風を吹き込み、スペインに現代サッカーを持ち込んだクライフと、日本のプロ野球に一石を投じた古田選手。改革を担ったリーダーたちは不思議なところでつながっている。


78年大会に不参加だったのは……

 クライフは母国語のほかに英語とスペイン語を不自由なく話す。「子供たちはカタルーニャ語も知っているから、ボクより多く4ヶ国語だよ」と。
 3ヶ国語を話せるクライフは74年ワールドカップでミケルス監督に代わって記者相手に説明役を引き受けることになる。この複雑さと、もう一つの役柄が、ピッチでのプレーとは別に彼の悩みとなる。
 74年大会のオランダ代表は21人、試合当日にベンチに入れる選手は先発のほかに5人だけ。残りのメンバーはスタンドで観戦することになっていた(現在は登録メンバー全員がベンチに座れる)。
 そのベンチ入りしない選手の一人ひとりにクライフはチームの方針上こういうことになったという説明をした。誇り高い選手にとってベンチにも入れないのだから不満も大きい。それを説明して納得してもらうのは、なかなかの仕事だった。
 74年大会のあとでクライフは「家族と2ヶ月も離れて暮らすようなことはしたくない」と言い、78年大会は予選に出たが、アルゼンチンへは行かなかった。彼のキャプテンシーは有名だったが、チームをまとめるための苦労、それが78年大会不参加の根底にあると、このとき私は初めて知った。
 何年か前にダビッツが記者会見で「第二のライカールトと言われている」と言った記者の質問に対して「ダビッツはダビッツにしてライカールトにあらず」と英語で滔々(とうとう)としゃべったのを聞きながら、こういう理屈っぽいオランダ選手を相手に“理(ことわり)”せ説くのはたいへんだろうなと、クライフに思いをはせたものだ。


どれだけ速く走るかでなく、いつ走るか

 彼自身は右利きだが、右でも左でもボールを蹴った。左足のシュートでゴールを奪い、右足でファーポスト側へ長いクロスを送って仲間に合わせるプレーも見せた。80年にワシントン・。ディプロマッツでプレーする彼を見たときは、右太ももにサポーターをつけ、プレーは左足だけだった。左で止め、奪いに来る相手をターンでかわし、左でパスを出していた。「選手は若いうちには、まず練習、ワーク、ワークですよ」と技術を高め、体の能力を高める大切さを語った。
 74年のオレンジ軍団については「常に互いに話し合い、お互いのプレーを理解し、役割を知っていた」。
「だからアルゼンチン戦での、私の左からのファーボールにもレップが合わせた。レップがファーへ来ることは予想していたかって?それが彼の仕事ですヨ。もちろん、私はニアの選択も可能だったが、ファーがいいと思った」
「私はボールを受けたとき、常に3つはパスコースを持っていた」など楽しげに語ったが、紙の上に仲間の動きとパスコースを描きながら、彼は図上だけでなく、タイミング(いつ蹴るか、いつそれをするか)を強く説いた。普通には言葉で説明し難いタイミングについて、語ろうとするところに、天才的なプレーヤーであると同時に優れた指導としての顔を見た。
「どれだけ速く走るかよりも、いつ走るかがサッカーでは“いつ”が大事なんですヨ」
「どんないいワザを持っていても、“いつ”使うかです」
 若い選手へのアドバイスを求めたときに、いくつかを並べ、最後に「一番大切なのは、仲間を助けるという気持ち」だと言った。


(週刊サッカーマガジン 2005年4月12日号)

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