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第16回 竹腰重丸(2)少年期は剣道 大連でサッカーに出会い山口高校でチョー・デインを知る

技術の元締めと少年の質疑応答

 竹腰重丸さんに私が始めて会った――というより、口を利いたのは1941年、昭和16年の第12回明治神宮国民体育大会のときだった。明治天皇の誕生日、11月3日(当時は明治節といった)を記念したこのスポーツの総合大会(戦後に国体となる)は太平洋戦争の足音が聞こえる緊迫した情勢の中でも(夏の全国大会は中止したのに)予定通り開催され、私たち神戸一中は地域予選を勝ち抜いた8チームの一つとして東上していた。試合の始まる前日に、全チームが集まって、大会の注意事項などを聞かされたあと、演壇上の竹腰さんが、何か質問はないかと言うので私が立ち上がってオフサイドについて尋ねた。
 オフサイド・ポジションにいたものが、味方のパスをカットしようとした相手に当たったときに、オフサイドは消えるのではないか――という、まことに初歩的なものであったが、それに対してていねいな受け答えをしてくれたのを、いまも覚えている。当時35歳のノコさんはJFAの理事、技術指導委員長であり、審判統制委員、代表選手選考委員長で、日本サッカーの技術の元締めだった。地方の中学5年生(16歳)が雲の上の人に衝動的に問いかけたのは何故だったか――、ひょっとすると、神戸一中の先輩たちの会話の中に、ひんぱんに出てくる“竹腰さん”“ノコさん”が頭にあって、そのご当人と口を利いてみようという少年の好奇心からだったのかもしれない。
 私自身がのちに新聞記者となり、ノコさんを取材する立場になることも、兄・太郎の結婚式の仲人になってもらうなどのことも、もちろん、知るよしもなかった。


なぜ、ライナーで飛ぶのか

 明治39年(1906年)、大分県臼杵市で生まれたノコさんが、生涯を懸けるサッカーに出会うのは小学校を終え、中学2年生のときに大連一中に転校したとき。校長のサッカー奨励策のおかげで、まったく縁のなかったこの遊びを知る。
 体操の時間にボールを手で止めて先生に叱られた“無知”な少年は、ボールを足で蹴ること、ドリブルすることに、すぐ夢中になってしまう。中学3年生のとき自ら音頭を取ってチーム」を作り、外国人と試合をするまでに。
 臼杵時代は剣道をしていた。スリムだったが、バネのある体だった。何より負けず嫌いで、自分より上手な人を見ると、追い付き、追い越そうとした。
 たとえば、外国人が蹴ると(当時、日本領であった中国の遼東半島の大連にはロシア人などの外国人がいた)ライナーのボールが飛ぶ、どうすればライナーを蹴れるのか、といった調子。
 大連一中から旧制山口高等学校に進学したのが大正11年(1922年)。サッカーへの傾倒はますます強くなる。
 この10年間、1912年のストックホルムのオリンピック大会に日本が初参加し、スポーツ熱が高まり始めていた。
 サッカーも大正6年(1917年)の東京芝浦での第3回極東大会に初めて参加した。フィリピン、中国に敗れ2戦2敗だったが、この“国際試合”がメディアを刺激し、翌年には、東京、名古屋、大阪で新聞社の後押しを得てサッカー大会が開催された。
 そのうちの一つ、大阪・豊中での日本フートボール大会が、いまの全国高校選手権の前身になる。
 大正10年(1921年)に大日本蹴球協会(JFA、現・日本サッカー協会)が発足し、日本選手権(現・天皇杯)もスタートした。
 明治6年(1873年)に英軍海軍のダグラス少佐とその部下によって築地の海軍兵学寮(海軍兵学校)で初めて紹介されてから半世紀を経てサッカーは、そこここの小さな湧き水や伏流を経て、小さな流れを作っていた。
 その流れが、やがて山中の渓流となり、広い平野部へ出て大河となるまでの道のりに、ノコさんの青春時代があった。


山口高校時代にチョウ・デインと

 旧制高等学校は一高が東京、二高が仙台、三高が京都というふうに八高までのナンバースクールと、都市の名を冠した地方豊かな37校があって、国立大の予科的(教養学部的)な学校として一般教養を学び、自由な気風を保ちつつ学生たちは、何かひとつのものに打ち込むことをよしとする風潮があった。
 山口高校のノコさんにとって、それがサッカーであっとことは言うまでもない。折りしも、大正12年に第1回全国高等学校蹴球大会が始まった。
 東大学生の野津謙(のづ・ゆずる、のちの第4代JFA会長)さんの提唱でスタートした大会は、体と体、闘志と闘志のぶつかり合う激しさで注目されるのだが、その第1回の大会で山口高校は決勝まで進み、早稲田高等学院(略称=早高)に敗れた。その早高がビルマ人チョー・ディンのコーチで上達したことをノコさんは知る。“それでは自分もチョー・ディンに学びたい”

 
(週刊サッカーマガジン 2005年4月26日号)

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