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第17回 竹腰重丸(3)ひたむきに極東の王座へ 上海でフィリピンに勝ち 東京で中華民国と3−3

サッカーのしやすい学部へ

 ビルマ(現・ミャンマー)人、チョウ・デインの評判を聞いた山口高校在学中の竹腰重丸、愛称ノコさんは、彼の書いたテキスト「HOW TO PLAY ASSOCIATION FOOTBALL」を買い求め、山口に招いて指導をしてもらった。
 “高等工業学校の学生だけあって、ボールを足で蹴るのは腰を軸にした円運動だから、どこでどう蹴れば、どう飛ぶんだ、というふうに物理的に説明してくれた。それまでの指導は、ただ怒鳴るだけだったのが、よく分かるように理論的に説明してくれた”(ノコさんの話)
 それに傾倒して、東京まで出てゆき、ついには全国を巡回コーチについて歩くようになった。
“パスをつないで、最後にゴール前でフリーでシュートできることも、ボールキープの大切なことも彼は強調した”
 大正14年(1925年)に山口高の理科甲類を卒業し、東京帝大(東大)医学部薬学科に入学した。4月の入学早々に第7回極東選手権大会の代表選考試合があり、大阪サッカーが優勝したが、ノコさんは大阪サッカーの補強選手として5月にフィリピン・マニラでの大会に参加する。初の国際試合デビューは第2戦の対中華民国(現・中国)で0−2で敗れた。日本は第1戦のフィリピン(0−4)にも敗れて2戦2敗。実力の違いを見せ付けられて帰国すると、東大の授業が待っていた。
 実験の多い薬学科は海外行きで欠席した分を追い付くために夏休み返上でかからなければならない。といって秋には関東大学リーグがある。
 ノコさんは主任教授に申し出て薬学科を退学することとし、翌年4月に農学部農業経済学科に入学する。
 
 
東大の黄金期と極東大会

 ここなら実験はなく、サッカーに打ち込めると、東大サッカー部の充実を図り、その年の関東大学リーグに優勝した。
 インターハイを目指して猛烈に練習を積んだ各高等学校から優れた選手が集まってきた。それをノコさんの強い意志と理論でまとめた。チョウ。デイン直伝の基礎技術と戦術論に自らの工夫を加えて、東大のショートパス攻撃を作り上げた。右も左も蹴れるノコさんは高校では左のインサイド(攻撃的MF)、のちに最も動きの多いロービング・センターハーフを務める。
 大学リーグの初優勝の次の年、1927年(昭和2年)には第8回極東選手権へ。こんどは国内の代表選考試合で勝った早大WMWの補強選手となった。例のチョウ・デインをサッカーに引き込んだひとりの鈴木重義がこのチームの主将で、彼らは8月の上海で中華民国に負けた(1−5)が、フィリピンを2−1で破り、日本の国際試合初勝利を祝う。1点目は鈴木主将、決勝ゴールはノコさんだった。
 東大の黄金時代を作り、昭和4年に農業学部を卒業したノコさんの近い目標は、翌年に東京で開催される第9回極東大会で中華民国を倒すことだった。
 
 
合宿で短刀を眺めて気を鎮め

 JFAは、このホームでの大会のため、初めて、東西の大学リーグから優秀プレーヤーの選抜チームを編成することになった。チーム強化のための第一期合宿は、その激しさをのちのちまで語り継がれるほどだった。ノコさんは、主将であり、練習計画や戦術にかかる大黒柱だった。
 その責任の重さに堪え、気持ちを落ち着けるため合宿で、ひとり母親の遺品の短刀を抜いて眺める夜もあったという。
 5月24日から31日までの大会の中で、サッカー競技は日本、フィリピン、中華民国の3チームリーグ、5月25日の対フィリピンに日本は7−2で勝った。開始8分までに2点を奪われたが、しだいに日本のパス攻撃がさえた。組織力の違いと、フィリピン側も言っていた。27日に中華民国がフィリピンを5−0で破った。1勝同士の対決は29日に行なわれ、シーソーゲームの末、3−3で引き分けた。短いパスをつないでスピーディーに攻める日本、長いパスとドリブルを生かす中華民国の双方の特色が表れたゲームだった。
 ノコさんはパスの起点となり、相手の強力なFWを抑える守りの軸となった。
 延長戦はなく、3−3で引き分けとなったあと、全力を尽くしたために歩けなかった。体格の良い田辺五兵衛が背負ってすぐ近くの合宿所、日本青年館へ運んだ。
「途中で背負いなおそうとしたら、彼はズルズルと落ちてしまった。ボクの肩に手をかける力も残っていなかった。全力をしぼって戦ったのだなと思った」(五兵衛の話)
 中華民国に追い付くという目標は果たしながら、2年後のロサンゼルス・オリンピックはサッカーはなく、五輪参加の夢は挫折する。タバコも酒も関係なしだったノコさんが酒を口にするのはこのころからだ。しかし、ベルリン・オリンピック(1936年)への参加とサッカーをもっと盛んにする望みは消えることはなかった。
 せっかく勤めた帝国農会という職場を自ら願い出てやめ(依願退職)大学に戻る。実利も名利もいらず、大学の嘱託としてサッカーひと筋に歩むためだった。


(週刊サッカーマガジン 2005年5月3日)

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