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第18回 竹腰重丸(4)後輩とともにベルリンの栄光 戦後の復興の先頭に立ち長沼・岡野の若いペアに託す

技術アップと敏捷性

 1936年ベルリン・オリンピックの対スウェーデン逆転劇は、欧州では衝撃であっても“世界の常識”から遠い日本では、サッカー人の気分高揚にはなっても、一般社会ではそれほど話題にならなかった。92年のヨーロッパ選手権スウェーデン大会のとき、ストックホルムやイエーテボリ、あるいは飛行機内で何人かと会話を交わして、その半数以上が“36年ベルリンからの暗いニュース”を知っているのを確認した。
 なかには親父さんから聞いた話として“ラジオの実況放送をしていたアナウンサーが、日本の攻撃の素早さと動きの多さに「ここヤパナー(日本人)、そこにもヤパナー、ああ、またヤパナーが現れた」と繰り返したので、そのアナウンサーはしばらく「ヤパナー」と呼ばれた”と語る若い人もあった。
 日本人の敏捷性を生かし、組織的に守り、組織的に攻める――、個人能力に優れた中華民国に勝つまでにノコさんたちが追求し、昭和5年の極東大会で成果を挙げた日本スタイルのサッカーが、6年後のベルリンで輝いたのだった。
 このときの日本代表の監督は鈴木重義、コーチはノコさん・竹腰重丸と早大の工藤孝一だった。30歳のノコさんはプレーを続けていた。選手登録も考えたが、結局はコーチ1本にした。
 
 
自分の参加する五輪募金に寄付

 このときノコさんは東大から「ドイツの大学での体育施設管理に関する調査」をしなさいという辞令をもらい、また、先に退職した帝国農会からも「ドイツの農業の調査」を依嘱され、それぞれ500円と200円の手当てを受けている。このため、オリンピック後もドイツをはじめ、スイス、英国、フランス、オーストリア、イタリアを経て帰国。大会と合わせて6月20日から11月29日まで、日本を離れていた。もちろん大学や農業の調査だけでなく、各地のサッカーも見て歩いた。イングランド1部リーグ(現プレミアシップ)の試合もしっかり見ていたのは言うまでもない。
 驚くのはノコさんがこうした諸手当ての大きな部分を、ベルリンへサッカーチームを送るためのJFAの募金に寄付していることだ。
 ベルリンから帰ると、JFAの技術指導委員長となる。1940年の東京オリンピックの日本代表選考委員長となる。やがて“40年東京”は幻に終わるのだが…。
 大学の学生課に勤め、ベルリンの成果が次の世代に移るのを眺め、辛口の批評と厳しい指導を続ける生活は大戦で中断される。
 海軍の司令官となって、南方に派遣され、敗戦とともに昭和21年に帰国する。6月に東大に戻ると10月には第1回の国体があり、決勝に東大のLBが出場した。ライトブルー(LB)のストキングカラーをチーム名としたOBと学生の合同チームは東日本の代表となり、西日本代表の関学と西宮競技場で戦った。40歳のノコさんにとって最後の公式試合だった。


大学生・浅見俊雄の驚き

 このころのノコさんの元気さと、巧みなドリブルを浅見俊雄さんに振り返ってもらう。
 JFAで長く審判員長を務め、国際的にも顔の広い浅見さんは1933年10月3日生まれ、昭和27年1月の第30回全国高等選手権で浦和高校が初優勝したときのCBである東大に27年に入学(31年卒業)して、しばらくOBとの交歓試合があり、ノコさんと対戦し、ボールを奪うことには自信があったのに、そのドリブルに簡単に抜かれてしまった。“上手い年寄りもいるナ”が感想。
 のちに1962年にそのOBの名手の息女・悠紀子さんと結婚し、長くノコさんとともに暮らすとは考えもしなかったのだが…。
 自分のプレーは人を驚かせるほど元気で上手であっても、戦争による中断期の痛手は日本サッカーにとって深いものだった。ノコさんとベルリンの後輩・川本泰三達は、東京オリンピックを迎えるにあたって、クラマーを招くという野津会長の提案に賛同し根本的な対策を取とることになる。それはやがて日本代表の監督、コーチ、選手達の兄貴分のような若い30歳代の長沼健、岡野俊一郎にゆだねる。二人は1953年にノコさんが団長としてドイツの国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に参加したメンバーである。試合だけでなく、若いうちにヨーロッパ各地を回り、スポーツの本場の体験をした二人は、やがて日本のサッカーの大きな力となるのだが、それはまた、かつてノコさんが若くしてJFAの責任ある地位についてやり遂げた自身がバックになっているのかもしれない。
 岡野俊一郎JFAミュージアム館長はいまも言う。「30歳そこそこの若い私たちに、あのときノコさんたちはよく代表チームを任せる気になりましたね。その決断力はすごいと思う」と―――。
  

(週刊サッカーマガジン 2005年5月10日号)

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