賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >大戦争に直面して(2)

大戦争に直面して(2)

新しい大学サッカー部の創造

 昭和17年(1942年)4月、私は神戸商業大学予科(現・神戸大学)に入学した。この学校は昭和15年に誕生したばかりで、もともと神戸商業大学は、その前身の神戸高商(明治35年=1902年創立)という専門学校が昭和3年に大学に昇格したもの。東京商科大学(現・一ツ橋)と並ぶ国立の商業に関する単科大学で、大阪の市立・大阪商科大学と並んで3商大と呼ばれていた。
 ついでながら、東京と神戸の官立(国立)に対して大阪が市立というのは、大阪商人の心意気を示すものとされていた。
 その3商大のなかで唯一、予科を持っていない神戸商大の年来の希望であった予科設置が、文部省に認められたのだった。
 私自身は当時、商業大学へ進むといった将来像は見ていなかった。すでに1回生として2年前に入学していた兄・太郎から、全員が寮に入る“全寮制度”の模様や、その寮長であり、一高、東大でボート部の選手であった氏家賢次郎(うじいえ・けんじろう)先生の人柄などは聞いてはいたが、ともかく神戸一中の3年生から卒業まで、“サッカー一筋”というより“サッカー部一筋”の3年生から早く抜け出すことが第一だった。
 だから3回生として寮へ入ると、門のところにサッカー部の上級生(1回生、2回生)がいて、彼らが手にしている大きな紙片に「賀川浩、蹴球部入部を許す」とあるのには驚いた。
 1回生から3回生まで3学年が初めて揃ったということで、1回生(3年生)たちはとても喜んでいた。神戸一中で全国優勝2回のキャリアを積んだ兄・太郎は、灘中の西田二郎、上原健司らとともに、6年制大学として強いチームを作り上げる夢を抱いていた。
 2回生には、太郎の親友、芦田信夫、則武謙が一浪ののちに入っていた。そして3回生には、神戸ニ中から山田治、灘中から河崎俊一たちがやってきた。


最も単純なフォームこそ…

 大学のサッカー部長は、ドイツ語の加藤一郎教授、予科の部長は西洋史の堀米庸三教授だった。山形の旧家の息で、中学、高校(一高)のときにはハイジャンプの選手だった堀米先生は、登山も好きでスポーツには一家言があり、入寮式の後のサッカー部だけの集まりのなかで、自分が走り高跳びから学んだ哲学――最も単純なフォームこそが、最も理想的なフォームである――を語ってくれた。
 大戦争では、3月のシンガポール占領、ジャワ島制圧など日本軍の戦争が大きく宣伝されていた。
 どんどんと占領地が増えていくなかで、4月18日にアメリカ陸軍の16機が東京、名古屋、神戸などを空襲した被害は、大したことはないと発表された。
 練習を済ませて、御影のグラウンドから北へ(山の方へ)向かって歩き出したとき、私たちは山腹をかすめて飛ぶ1機の飛行機を見つけた。その後どこかでドカーンと音がし、飛行機が消えてから空襲警報が聞こえた。
 あれが敵機だったのか、大空襲の恐ろしさを知らない私たちは、「いい形だった」とか「爆音が小さいのはエンジンの出力が大きいからだ」などと、互いに勝手なことを言い合っていた。


会心のゴールとイメージ

 4月末から5月にかけて、天長節(いまのみどりの日)前後に行なわれた岡山医科大学主催の大会に、予科のチームが出場して優勝した。
 1日に3試合、ノックアウトシステムの第1戦の相手は、インターハイの名門校である第六高等学校(六高)、準決勝の相手は高松高等商業、そして決勝の相手は松山高等学校であった。
 どのチームも強かった。六高には高校に入学してからサッカー部に入った神戸一中の先輩たちが多く在籍し、高松高商には、広島一中の全国優勝メンバー、松高には私より4年うえの友貞健太郎や2年上の向井清がいた。
 この松高との対戦での先制ゴールは、右ウイングの則武が俊足で飛ばして私の左前まで走り、兄・太郎からの長いスルーパスを受けて、ダイレクトに右足で後方へ折り返し、それを右斜めへ出た私がゴールエリア外でシュートして決めたもの。太郎のキープ力が根幹であっても、則(のり)さんの描いたイメージは、当時としてはスケールの大きいものだった。
 6年後に日本代表となる則さんの、一浪中に蹴った1日50本のクロスによる実力アップと、中学時代に部員でなかった先輩たちの高等学校での上達ぶりは、のちに私の選手育成論への大きなヒントとなっていくのだが…。
 大戦争に突入しながら、私たちはまだ、ボールを蹴る自由を満喫していた。


(週刊サッカーマガジン2000年9月27日号)

↑ このページの先頭に戻る