賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >大戦争に直面して(3)

大戦争に直面して(3)

ブラジルとの戦いで何を学んだか

 中田英寿を欠き、なお“超本気”のブラジルを倒そうという、いささかムシの良い願いは、夢に終わった。しかし、選手たちは90分間存分に戦い抜き、自分たちの特徴を知り、相手との技術の差を認め、それを埋めるものは何か――など、多くのことをつかむことができたに違いない。
 これで、準々決勝の対戦相手であるアメリカ合衆国に勝てば、ベスト4、そこからは2試合を戦えるから、シドニー大会で7試合も戦えることになる。メダルとともにプレーヤーにとっても、日本のサッカーにとっても大切な蓄積が増えることを願いたい。
 スロバキアの勝利によって得た幸運を生かすためにも、選手たちは戦う姿勢を崩すことなく、伝統のフェアプレーの旗印を掲げて戦ってほしい。
 準々決勝、準決勝と一歩ずつステップを上るごとにテレビ中継の視聴率は高くなり、より多くの人たちにサッカーの良さを味わってもらえるからである。


ローソクの火でボール修繕

 さて、連載の話に入る。神戸商業大予科(現・神戸大)に入学した私は、旧制の高等学校的な大学予科でボールを蹴っていた。
 1942年(昭和17年)、大学予科の1年生の前半は、大戦争がまだ“勝ち戦(いくさ)”で、町にも多少の余裕はあった。
 ただし、サッカーの練習に使うボールは、新入生が加わって人数が増えたために、あっという間に傷みがひどくなり、不足し始めた。
 中学校のときに、ボールの修繕は十分にやったのだから、もうここではしないつもりだったのだが、そうもいかず、針と糸とチャン(松ヤニ)と、再び付き合うことになった。 ただし、寮は消灯時間が決まっているので、それ以後はロウソクの火だけが頼りになる。昔の学生たちは、この消灯時間以後もロウソクの火で勉強することを、いきがって「ローべん(勉)」と称したが、ボールの修繕ではいささか格好が悪い――だけでなく、視力にも影響が出てきてしまう。とうとう書の授業をさぼって、ボール修繕の時間に当てたりするようになった。


神戸一中、9試合、70−0

 この年の私のもう一つの関心は、卒業した後の神戸一中の動向についてだった。夏にあるはずの全国大会は、新聞社の主催行事でなく「学徒体育振興会」主催となり、その第1回全国総合体育大会の中学蹴球の部として行なわれた。
 総合大会の開会式が、橿原神宮の近くに作られた競技場で行なわれた。“皇国史観”を強めるためであったのかどうか、師範学校とは別に中学校だけの大会となっていた。
 その大会で岩谷俊夫を主将とする神戸一中は、1回戦から決勝までの3試合を6−0、7−0、9−0と圧倒的なスコアで勝ち上がった。兵庫県予選など全9試合で総得点70、失点0だった。
このチームにとっての実力を試すもう一つの機会に、秋の神宮大会があった。師範学校も、朝鮮地方代表も含む8チームが参加した。
 1回戦で朝鮮代表の培材中学を3−0で破ると、準決勝では仙台一中に2−0で勝利した。しかし、決勝では青山師範と引き分け(2−2)に終わってしまった。全国大会は、次の年から中止となり、私が描いた神戸一中の黄金期継続の夢の実現は、この年で終わりとなる。


朝鮮代表と3戦2勝1分け

 それでも、1938年(昭和13年)から数えて、全国大会での神戸一中と朝鮮地方代表との対戦は、3戦して2勝1分けと、結果を残すことができた。
 大正末期のチョウ・デンによる技術開眼期から、2歳年長で体格も大きい師範学校に勝つために、多くの先輩たちが積み重ねてきた貯え――小さくても素早い動きを生かすための技術と戦術を、より高い技術の朝鮮地方代表との対戦に置き換えて、小さくても強い体を作るトレーニングとシュートの向上によって対抗しようとした。
 私たちの企ては、まずまずの成功だった。
 8月のガダルカナル島に米軍が上陸、遠いヨーロッパではスターリングラードの攻防が始まった。
 破竹のドイツ軍の勢いは止まり、日本軍の連戦連勝ムードは停滞し始めた。
それでもこの年の暮れ、“ケツさん”こと芦田信夫と私は、京都北山の雪の峠道を彷徨(ほうこう)した。青春のわずかな自由の日々だった。


(週刊サッカーマガジン2000年10月11日号)

↑ このページの先頭に戻る