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大戦争に直面して(4)

シドニーの成果とストライカー

 シドニーの準々決勝敗退は、まことに残念でした。日本人の大好きなオリンピックでメダルを取ることができれば、Jリーグの繁栄にもつながったのに――。
 それでも、中田英寿の不調というマイナスを抱えながらも、よく守って、よくチャンスを作り、U−23(23歳以下)の若い世代ながら、世界のどの辺りにいるのかを見せたのは、立派なことです。
ただし、2002年ではこのチームを主体に各国のフル代表と戦うには、どこを、どれだけ伸ばすかの課題が残ります。
 日本好みの攻撃的サッカーを掲げている以上、得点力アップが急務です。
 この大会で高原(直泰)が3得点の活躍をしましたが、ヘディングで2ゴール、右足で1ゴール、しかし型のできかかっている左足シュートでは1ゴールもありませんでした。
 右足での1点は立派ですが、中田英寿の絶妙のパスで相手GKがポジションを狂わされた(飛び出してきた)のが大きなポイント。米国戦では相手GKと相対しながらの右足のフリーシュートを2本外しました。
 両足でのシュートの精度を高めることとともに、どうすれば左足で自分の得意の型に入れてシュートをするかという工夫をますますしなくてはならないでしょう。
 ゴールを奪うのは、チーム全員の働きの結果ではあっても、やはりフィニッシュにかかわる選手の力が大きいのです。
 サポーターの皆さんも「どう攻めたか」ではなく「どう得点したか」を見つめて、若いストライカーたちのレベルアップを後押ししてください。


インターハイを目指したが…

 さて、話は前号に続いての大学予科のころ――。
 昭和18年(1943年)に入ると、2月にガダルカナル島撤退が発表されて、4月18日には、連合艦隊司令長官、山本五十六(やまもと・いそろく)の戦死が告げられた。
 私たちは、司令長官が戦死しなければならぬこの戦争の難しさを感じた。
 それでもサッカーは、この年の1月には東西学生1位の対抗戦(学生王座決定)があり、関東の早大が関西代表の関学大を破った。
「高等学校的・大学予科」を目指している、私たちの願いであった、旧制インターハイへの出場が、文部省から許可されて、8月の大会を目指しての練習は熱を帯びた。
 しかし運動部にも変化が起こり、まず米国製のため野球はダメ、テニスも(軍が軟弱だと思ったのか)廃部、蹴球部は、それらの有志を受け入れて、大世帯となった。
 私自身は、4月の進級のときに留年したため、インターハイには出場できないことになってしまった。だから、もっぱらレギュラーの相手側にまわって「練習をつける」役目に徹した。
 入学時に注意を受けた胸部疾患から脱して、このころの練習で体は強く、自分でも技術や戦術眼が伸びて、中学生のサッカーから大人への転換を感じたから、不思議な功徳(くどく)と言えた。


学徒出陣へ、壮行試合を繰り返し

 欧州での戦いは、1月の末にスターリングラードのドイツ軍が降伏をして、5月には北アフリカ戦線での連合軍の勝利が決定した。イタリアへの進攻は、時間の問題となっていた。
 こうした戦争の急迫は、学生たちにも及んできて、全国規模のスポーツ大会は全て中止と決まり、 学生たちはスポーツに代わって勤労動員に出かけることになった。
 私は北九州の貝島大之浦炭鉱の石炭増産のため、2週間(あるいは20日だったか)働きに出かけることになった。
 作業は決して楽ではなかったが、石炭はふんだんにあるため、風呂にはいつでも入ることができるのと、労務加配で米の飯が十分あるのが何よりだった。
 その夏が過ぎると、学生の徴兵猶予制度の廃止、つまり日本人の義務である兵役の年齢に達しても、大学や専門学校に在学中の者は、徴兵を猶予されるという制度が、理工科や教員養成以外には通用されなくなった。兵隊に行け、ということになった。
 10月12日のこの「教育に関する戦時非常事態措置法策」の決定によって、文科系学生の徴兵検査が行なわれ、いわゆる学徒出陣、陸軍は12月1日、海軍は12月8日に入隊することになった。
 12月29日生まれの私は、徴兵年齢に達しないが、兄・太郎は海軍へ、ノリさん(則武)ケツさん(芦田)は陸軍へ、送る者、送られる者、入隊までの1ヶ月半、何度も集まって試合をした。


(週刊サッカーマガジン2000年10月18日号)

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