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大戦争に直面して(6)

飛行機乗りの量産計画

 昭和19年(1944年)6月1日から大戦の終結(1945年8月15日)を経て、復員するまでの1年4ヶ月の軍隊での生活は、ボールに触れることができない(1日だけ、それも30分ばかり、南朝鮮の学校の校庭で蹴ったことがある)、いわばプレーヤーとしては成長過程のなかでの惜しむべき空白期ではあった。しかし同時に、その後の人生にとっては、まことに貴重な体験の日々でもあった。
 特別操縦見習士官(とくべつ・そうじゅう・みならいしかん)の制度は、陸軍が短期間に航空戦力の増強を図るために、「高等専門学校程度以上の学校を卒業、または卒業見込みのある志願者を選考、採用して、曹長の階級を与え、陸軍飛行学校で教育訓練する」もので、修業年限は1年6ヶ月としていたが、戦争の急迫のために、さらに短期間で基本教育を終えて卒業させ、その後、練成飛行隊を経て、戦場へと配属されていった。
 昭和18年10月1日に、第1期生、2500人、昭和19年2月1日に第2期生、1200人が採用されていた。2期生は、いわゆる「学徒出陣」でその前年の12月1日に歩兵そのほか普通兵科に入隊した者のなかからの募集だった。
 私たち3期生のときは、この学徒出陣組と、在学中に志願した者との両方から選ばれた2600人が、宇都宮、仙台、熊谷、軽井沢などで入校式に参加した。


楽園でのグライダー訓練

 グライダーの訓練と飛行機についての学課と、将校となるための基礎教育に重点が置かれていた那須高原の金丸原(かねまるはら)での2ヶ月は、私にとって楽園のようだった。
 木陰のまったくない演習場でのグライダー訓練の暑さに閉口した仲間も多かったが、サッカーの夏の練習に比べれば、むしろ涼しかったし、カッコーの声を聞きながらの林間での授業、ヒグラシの合奏もあり、ときおりやってくる高原特有の驟雨と合わせて、まさにベートーベンの第6交響曲「パストラル(田園)」そのものと言えた。
 何より、学生を一人前の飛行気乗り将校にするための教育に当たる区隊長が素晴らしかったことも、ありがたいことだった。幹部候補生7割の相良、鯉渕という二人の少尉は、私たちに全人格をぶつけてくれたのだった。
 入隊して間もない時期のある朝、起床から点呼(てんこ)までの短い時間に、忙しく毛布をたたんでいるとき、相良少尉は、発熱をした戦友をそのままにしていた私たちを叱った。
「熱を出して寝ているそばで、ホコリを立てながら毛布をたたむのだから、この見習士官の顔に手ぬぐいをかけてやるくらいの気遣いができないのか。彼の母親がこのありさまを見たらいったいどう思うか、考えてみろ」と――。


ガソリン欠乏とボール不足

“楽園”の後、宇都宮郊外の壬生(みぶ)飛行隊での訓練は、さすがといえた。一つ間違えば機体を破損し、生命を失いかねない、危険と隣り合わせのなかで、教官である一期生の少尉が、大尉の教育 隊長に我々の目の前でパンチを浴びる厳しさだった。
 大学予科に入ってから、旧制高校的な空気のなかで、いささか、眞・姜・美などといった抽象論に傾き、サッカーでも技術よりもその奥にある「何者」かを追及する――といった、この年ごろ特有の技術軽視の観念論は、ここではまったく通じなかった。
 ノモンハンの戦いで、勇名をはせた校長、加藤敏雄大佐、あの隼の“軍神”加藤ではないが、やはり戦闘機乗りで操縦技術教育にかけては、陸軍航空の第一人者が、作成したマニュアルどおり習熟すること、その技術習得に全身を傾倒すること――が、まず必要だった。
 サッカーの技術でもそうだが、何回かの堂々巡りの後に、あるときに、パッと前が開けることがある。そうした面白味は、九五式一型350馬力、巡航速度150キロ、今の新幹線よりも遅い複葉(二枚翼)の練習機“赤トンボ”でも、味わうことができた。
 順調に進み始めた操縦教育も、ガソリンの欠乏のために10月の初めに中止された。
「なんや、ここでもボール不足と同じ目に遭うのか」
 8月に奪われたサイパン島からB29が飛来し、偵察のために秋空に白い航跡を引くのを見上げながら、私たちは、ただ演習再開を待つほかはなかった。
 その10月24日、レイテ沖海戦で戦艦武蔵に乗っていた神戸一中のサッカー仲間、福田靖少尉が戦死したのも知らずに――。


(週刊サッカーマガジン2000年11月1日号)

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