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大戦争に直面して(7)

冬の北関東、2ヶ月の充実

 ガソリン不足で中断していた飛行機演習が再開されたのは、昭和19年(1944年)12月6日、すでに西の山並みの向こうに雪を覆った白根山が、名の通り白い山頂部を現すようになっていた。
 神戸では経験したことのない北関東の寒さだが、南方の移動組、九州、山口の戦隊へ移る者、壬生(みぶ)に残ったのは100人ばかりで、演習環境は申し分なく、また、初期の“修行期間”も済んでやや自由もあり、休日には書棚に預けた好きな本を読むことができた。宙返りや反転、編隊飛行など課目をこなしていくのが面白く、充実した日々が続いていった。
 ただし、戦勢はどんどん悪くなっていく。B29がすぐ西にある群馬県太田市の中島飛行機工場へ編隊爆撃に通い、次いで東京への空襲が始まった。
 そんななかで、私たちの訓練は昭和20年1月末で終わった。普通ならここからもう一段上のクラスの練習機の訓練を受けた後に、実戦機に移るのだが…。


陸・海とまとめるか新兵器か

 2月になって、朝鮮へ転属と聞かされる。B29だけでなく、艦載機、つまり航空母艦からの小型機が大挙してやってきた(16日)と思ったら、3日後にとうとう米軍が硫黄島へ上陸してきた。
 海軍の航空母艦がすでに壊滅していることを知らない私たちは、まったくワンサイドゲームとなった理由がよく分からなかった。たまたま所用で隊長室へ顔を出したら、満州の戦隊から来たという大尉がいて、戦局について論じてくれた。「この態勢を変えるには、陸軍と海軍を一つにまとめて指揮のできる大将軍が現れるか、まったくの新兵器しかない」という。
 それなら少年倶楽部という雑誌で読んだ「昭和遊撃隊」――本土を空襲で壊滅させようとするA国の大型爆撃機を海中から舞い上がった飛行潜水艦が撃墜するという平田晋作の筋書きと変わらないナ、と思った。
 2月末、飛行機乗りのタマゴたちは宇都宮を出て福岡・釜山経由で朝鮮半島に渡り、3月3日、黄海南道・海州市郊外の迎陽飛行場に着く。
 比較的空襲の少ない北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で訓練を進めようというのだが、飛行場はまだ建設中、兵舎はあるものの、食糧の手配などができていない。
 3月9日のB29による大空襲で東京は、関東大震災に匹敵する大被害という。神戸も12時間燃えたが、我が家はまだ無事だったらしい。九州が艦載機の制圧を受けたのち、4月1日に米軍の沖縄上陸。
 向こうは着々と作戦を進めているのに――焦燥感が4月16日の演習開始で少し落ち着いたところで、5月1日に命令がくる。と号隊(陸軍では特攻隊をこう呼んだ)に入るのだという。


敵艦船艇に驀進衝突

「○○見習士官は4月30日付をもって、第413飛行隊付を命ぜられました。ここに謹んで申告いたします」――隊長の川上晃良(あきよし)少尉は、私たち5人の隊員の申告を受けると「ご苦労、今年のスイカは食えないからナ」と言った。
 宇都宮からの転属先の海州、宙543部隊が、迎陽で編成した「と号」は12隊。各隊は隊長1名に、隊員が5名。私たちの「413」のように見習士官ばかりと、2〜3人の特別幹部候補生(いわゆる“特幹”で、中学2〜3年のなかから応募した)出身の下士官の交じっている隊もあった。
 飛行機は練習機“赤トンボ”を黒く塗って、複座の一つを燃料タンクに改装し、胴体の下部に爆弾をつけて体当たりする。
 手渡された「と号部隊戦闘要領」の最初に“と号部隊の目的は、航行または舶地における敵艦船艇に驀進(ばくしん)衝突し、これを必沈し、もって全軍戦勝の根基を確立するにあり”と書かれている。体当たりはいいけれど、この小冊子がガリ版ではなくちゃんと活字印刷だったのに驚いた。特別攻撃隊は、いまや特別でもなんでもないのだナ、と思ったものだ。
 6月1日から12隊の合同訓練が始まった。指導にあたる乗安(のりやす)少佐は、あの隼(はやぶさ)の加藤戦闘隊生き残りの名パイロット。急降下攻撃、夜間飛行、洋上低空飛行、洋上航法、爆装での離着陸など、ひとわたり行なったが、死ぬと決まっている者たちの、技術主眼の演習は、陸軍特有の堅苦しさはなく、学生時代の合宿練習のような楽しさだった。
 ただし、ガソリンに代わるアルコール100%の燃料は扱いが非常に難しく、爆弾や増加タンクで重さを増した練習機は、離着陸だけでも危険がいっぱい。夜間を含めての1日2回の演習で神経を擦り減らし、疲労のあまり、食欲不振となってしまう者もいた。


(週刊サッカーマガジン2000年11月8日号)

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